カテゴリー: Person

  • ブックオフグループホールディングス 堀内康隆

    ブックオフグループホールディングス 堀内康隆

    リユース業界のイノベーター

    人はモノに宿る記憶を手放すことをためらう。聴きすぎていまだにフレーズを口ずさめる音楽のCD、幼き日に遊んだゲームソフト。かつては捨てる以外に方法がなかった。新しきもののみを崇め、古びたものに宿る力を見過ごしていた世の中だったと言えよう。それらが、今では新たな持ち主の手に渡り、新たな記憶を刻み始める。これがリユースの本質であり、ブックオフグループホールディングス株式会社が長年にわたり築き上げてきた価値観だ。

    中古市場は、単に「使い古し」の証ではなく、過去と現在、そして未来をつなぐ架け橋として、私たちの日常にしっかりと根付いている。そこには、物語が眠り、かつての輝きと共に、新たな物語が紡がれる瞬間がある。厳しい変化が続く中古市場の“雄”とも言えるブックオフ。彼らはただのリユース企業ではなく、まさに時代を映す鏡だ。古くから「本」の買取・販売を起点に、CD、DVD、ゲーム、さらにはフィギュアやアパレルと、あらゆる「モノ」に新たな命を吹き込むこの企業は、常に時代の最前線に立ち続けている。

    その背後に力強く佇む人物がいる。堀内康隆。コンサルティングの現場で経験を積んだ彼は、2006年にブックオフコーポレーションに入社。当初実店舗中心でグループを支えていたビジネスモデルが、大小様々なネット市場や、Amazonメルカリといった新たな競争相手が急速に台頭するようになり、業績は一時期低迷の一途を辿っていたブックオフ。彼は2017年4月、苦境に立たされたグループを再生させるため、代表取締役社長としてその舵を取った。

    そして誰もが見惚れるような、華麗なV字回復を達成。それはまさに「一期一会」を体現するかのように、社員一人ひとりの「想い」に耳を傾け、その中に秘められた可能性を見出したが故の、予定的な現象だった。

    家賃約5億円削減の舞台裏

    「会社は人で成り立っている」これは堀内が常に口にする言葉だ。代表就任当初、はじめに堀内は全国150店舗を自らの足で巡った。各店の自慢や可能性に耳を傾けたその旅は、単なる視察に留まらず、各地域に眠る潜在的な力を引き出すための重要な一歩であった。トップダウン経営からボトムアップ経営へ。店長たちとの密な対話の中で、堀内は「どんなに小さな声でも、その中に大きな未来の種がある」と確信し、各店舗に方針書の作成を依頼、その中に店舗のキャッチフレーズの欄を入れ、キャッチフレーズに正解はないという柔軟な指示のもと、各店舗の店長たちが店舗運営方針書の作成を推進していく。

    また既存店への投資をも決断。それまでブックオフは新規出店にほとんどの資金を投じてきた。しかし店舗の潜在力を最大限に引き出すには、既存店の強みを磨く必要があった。そこで2億円の投資枠を設け、各店舗の裁量で改装や商品ラインナップの拡充を進めることを可能にした。その結果、店舗ごとの特色が生まれ、地域に根差した経営が実現した。

    たとえば、茅ヶ崎駅北口店。湘南の地にふさわしい店づくりをしようと、「BOOKOFF × SURF」というロゴを置き、1階をサーフショップのように仕立てた。そのほか各地域で見られた現場スタッフの自発的なアイディアの数々は、堀内が打ち出した「現場の声を大切にする」という哲学の表れであった。その結果、店舗は活気を取り戻し、売上も回復。そして改革はやがて全国へと波及する。

    それだけではない。堀内は、赤字の危機を乗り越えるため、家賃交渉という本来は数字の話に過ぎないはずの現実に、全社員の士気を高める一大改革をもたらした。全国の大家と交渉を重ね、なんと年間5億円の家賃削減に成功。その手腕は、まさに経営の現場での実践力と、信念に裏打ちされた行動の賜物である。

    組織の力は“熱量”で決まる

    自身の歩みの中で「人」という存在の尊さを、何よりも重んじてきたと語る堀内。ブックオフの成長の原動力には、「人財は会社の宝」という考え方、そして一人ひとりが成長し輝くことが企業の未来を形作るという確固たる信念がある。1,000名以上の社員、そして10,000名以上のパート・アルバイトスタッフ…彼らは単なる労働力ではない。各々の人生の物語を持つ「生きた財産」に他ならないのだ。堀内は彼らの声に耳を傾け、現場の“温度”をしっかりと感じ取りながら、全員で未来を創り上げるという使命感を胸に、今日もブックオフグループを牽引している。

    海外展開においても、堀内は恐れることなく、アメリカ、マレーシア、そしてカザフスタンといった舞台に自社のブランドを広げた。日本の「もったいない精神」をグローバルに発信し、日本で販売に至らなかった品々が、海外で宝物となる瞬間を数多く生み出してきた。彼の挑戦は、単に事業の拡大に留まらず、文化と価値観の交錯をもたらし、世界中の消費者に今もなお新たな驚きと感動、そして次なる物語の種を与えている。

    ネットの台頭、フリマアプリの登場、さらにはグローバル市場での競争。現代のビジネス環境は、常に変化の嵐の中にある。しかし、堀内はこう語る。「変化の先にこそ、未来がある」と。彼自身が現場で見つけ出した「自ら考え、行動すること」の大切さは、企業のみならず、個々の人生にも通じる普遍的なメッセージだ。

    小さくても一歩を踏みしめよ

    江戸時代の学者・政治思想家である林羅山は、儒学の精神に基づき、人の本質と道徳の重要性を説いた。彼は、時代の荒波の中でも自己を磨き、己の信念を貫くことの大切さを教えた。その教えは、現代においてもなお、リーダーとしての覚悟や人間としての成長の指針として受け継がれている。

    羅山が残した言葉は、単なる古文書の一節にあらず。激動の時代に相応しい、己の内面を磨き上げ、真の強さと優しさを兼ね備えるための羅針盤だ。現場で日々奮闘し、未来へ向けた新たな挑戦に燃える堀内の姿は、羅山が説いた「自立自尊」の精神そのもの。過去の知恵と現代の革新が融合することで、ブックオフグループは、単なる中古市場のリユース企業を超え、未来を拓く灯火となる。

    堀内代表は若者に向けて、エールを送る。「大きな一歩でなくとも、たとえ小さな一歩であっても、まずはその一歩を踏み出す勇気を持ってほしいです。」国内外、現場で感じる無数の失敗と成功の積み重ねが、やがて大きな実りとなり、人生の道を照らす光となるに違いない。

  • 株式会社コナカ 湖中謙介

    株式会社コナカ 湖中謙介

    スーツの本質とは何か?

    スーツは戦闘服である。ビジネスの場において現場の人間を支える美しい鎧であり、戦略を語る言葉そのものだ。スーツ市場は、時代の変遷とともに幾度も変革を迫られてきた。景気の波が襲い、カジュアル化が進み、コロナ禍がワークスタイルを塗り替えた。かつてスーツは、社会人としての必須アイテムだった。しかし、リモートワークの増加や、より柔軟な働き方が求められる今、スーツの価値観は変わりつつある。

    そんな中で、日本のスーツ市場を牽引する企業のひとつが株式会社コナカ。そしてその指揮を執るのが代表の湖中謙介その人だ。彼の経営哲学は至ってシンプル。「変えない勇気」そして「変える勇気」を持つこと。

    「スーツの本質は何か?それは、お客様が自信を持って前に進めるものかどうか。それだけなんです。」湖中はそう語る。お客様に寄り添うサービス、品質への徹底したこだわり。これだけは絶対に変えない。しかし、スーツの形や販売方法は時代とともに進化すべきだと考えている。お客様一人ひとりの体型や嗜好に寄り添った提案を行い、スーツを「売る」のではなく「最適な一着を共に作る」企業へと進化し続けているのだ。

    「なら自分たちで作ればいい」

    湖中がコナカの代表に就任したのは、偶然のようで、必然だった。コナカは元々神戸で生まれた企業で、訪問販売を通じて成長してきた。当時のスーツは高価で、一括で支払えるものではなかった。だからこそ、給料天引きの分割払いというシステムを取り入れ、着実に顧客の心を掴んでいった。

    彼は元々、社長になるとは思っていなかった。創業者一族の末っ子だった彼に、その未来は見えていなかった。しかし、ある日、前任の社長から声がかかった。「そろそろ、次に託したい」と。

    意図せず経営の現場に飛び込んだ湖中は自ら学び、考え、改革を進めていった。彼がまず着手したのは、商品企画の内製化だった。従来の小売業は、問屋から仕入れた商品を売るだけだったが、それでは価格競争に巻き込まれ、独自性を打ち出せない。ならば、最初から自分たちで作ればいい。

    SPA(製造小売)とは、小売業者が商品企画から製造、販売までを一貫して行うビジネスモデルである。中間業者を省くことでコストを削減し、迅速に市場のニーズに対応できる。コナカでは、独自のブランドやオーダーメイドシステムを活用し、消費者に最適なスーツを提供する。湖中が主導したこの戦略により、品質を維持しながら価格競争にも強くなり、差別化を実現。SPAの導入は、コナカが独自性を確立し、市場での競争力を高める大きな要因となった。

    時代を読み解く技術とは

    コナカが誇る強みは、変わらない品質とサービスだ。どれだけ時代が変わっても、服を選ぶ瞬間の高揚感や、新しいスーツを着た時の自信は変わらない。湖中はその本質を見極め、企業の方向性を決定している。

    「我々はお客様の目を見れば、何が必要かは自ずと分かります。」彼が現場を大切にする理由は、ここにある。本社の指示ではなく、実際にお客様と向き合うスタッフの声がすべてなのだ。スーツは既製品とオーダーメイド、両方の特性を活かしながら、お客様に最適な一着を届ける。それが、コナカの使命であり、湖中の信念である。

    そして次にコナカが挑むのは「多様性」だ。スーツはフォーマルウェアから、より自由で選択肢の多いファッショナブルなものへと変化しつつある。ビジネスカジュアルの導入、オーダーメイドの需要拡大、オンラインとリアル店舗の融合。変化する時代に合わせて、柔軟に適応していく。

    「一歩下がって考えることも、時には必要です。」湖中が大切にする言葉のひとつだ。リーダーは、目の前のことだけにとらわれず、全体を俯瞰し、自分たちにとって今、本当に重要なものは何なのかをも、見極めなければならない。

    「変える勇気」と「変えない勇気」

    唐代の詩人・白居易は庶民の目線に立ち、詩を詠んだ。彼の代名詞とも言える「長恨歌」や「琵琶行」は、誰にでも理解できる言葉で書かれ、世の中の真理を伝えた。彼の詩には、「本質を捉える力」、そして「普遍性」がある。

    それは、湖中の経営哲学とも重なる。「商売とは、ただ商品を売ることではない。お客様の心を動かし、長く愛されるものでなければならないんです。」湖中の言葉には、まるで白居易のような真摯な思索がある。人が何を求め、何に共感するのか。それを考え抜くことで、コナカは時代を超えて支持され続ける。

    スーツは単なる衣服ではない。それをまとう者の意思を表す表現道具であり、時には決断を下すためのスイッチでもある。だが、その装甲を脱ぎ捨てる時代が訪れているのかもしれない。今やスーツは「着なければならないもの」ではなく「選ばれるもの」になった。

    湖中謙介は、その変化を静かに見つめながらも、ただ受け身でいるわけではない。彼は「変える勇気」と「変えない勇気」を両手に握りしめ、市場に立ち続ける。

    変化を恐れない者だけが生き残る。しかし、根幹まで揺るがせばすべてが崩壊する。湖中の経営哲学は、白居易の詩のようにシンプルで、誰にでも分かる言葉に収まる。「お客様第一」。結局、それに尽きるのだ。

  • 三菱化工機株式会社 田中利一

    三菱化工機株式会社 田中利一

    産業の系譜を創り続ける会社

    産業界の荒波を乗り越え、時代の変遷を映す鏡のように、プラントエンジニアリング事業は今なお確固たる存在感を示している。かつて、重厚な鉄と機械音が響いた工場群の中で育まれた技術は、現代の複雑化する生産システムへと進化を遂げ、しかしその根底に流れるものづくりへの情熱は、決して色褪せることはない。

    そして環境・水素・エネルギー事業では、温暖化という現実の災厄と向き合う中で、何か新しいものが生まれようとしている。水素エネルギーは、まるで一篇の詩のように、理屈では到底理解しがたい美しさと可能性を秘めている。技術者たちは、単なる効率や生産性を超え、まるで自らの内面と対話するかのように、新たなエネルギーのあり方を模索する。しかし世界は待ってくれない。急速に変わり続けてゆく。そんななか、産業の根幹を支え続ける企業がある。

    川崎区大川町に本社を構える三菱化工機株式会社。1935年の創業以来、化学工業機械の国産化という命題を背負い、日本の産業発展の礎を築いてきた。その道のりは決して平坦ではなかったが、すべての時代を乗り越えてきた。戦争、高度経済成長、環境問題、エネルギー需要の変遷…そして今もなお、未来に向けて歩き続けている。

    この三菱化工機を率いるのが、社長の田中利一である。栃木県に生まれ、スポーツ少年として育った彼は、大学時代に持病の椎間板ヘルニアに苦しむことになる。二年間の療養生活を余儀なくされ、一度は人生に希望を見出すことを諦めたが、リハビリを通じて多くの人との出会いを経験し、そこから得た学びを糧に社会に飛び出した。その軌跡は、時代の怒涛をものともせず、己の信念を貫き通す力強い精神そのものといえよう。

    田中は単に企業の経営を実行する人間ではない。彼は実体験と感謝の心、そして未来への熱い志をもって、時代に新たな光を投げかけるまさに「現代の武士」であり、理想を追求する情熱家である。

    なぜ「ありがとう」なのか

    幼少期からスポーツに打ち込み、そのエネルギーと情熱を体現してきた田中。しかし、大学在学中に持病の椎間板ヘルニアが悪化し、人生が一変する。休学して約2年ほど療養生活を送った。学部の勉強に追いつけない。仲の良い同級生がいない。辛かった。しかし室内プールに毎日通い、痛みと向き合いながらも、そこで出会った人々とのふれあいが、彼の心に新たな光をもたらす。復学後、彼はかつての自由奔放な日々とは対照的な、厳しい自己管理と責任感に支えられた生活へと舵を切った。そこである意味、彼の人生は突然の暗転と同時に、内面の深淵に潜む「ありがとう」の意味を問い直す契機となったと自ら語る。

    1985年、若き日の情熱に突き動かされ三菱化工機に入社。その時は当時の常務の目に掛かり営業職として迎え入れられたが、運命のいたずらか、すぐに総務・人事、そして海外プロジェクトといった多彩なフィールドに身を投じることになる。30代、タイのケミカルプラント建設にアドミニストレーターとして赴任し、現地で日本人スタッフとして現場の苦労と情熱を身をもって知る日々。現地での過酷な環境の中、更地から工場を立ち上げる任命を受けて一心不乱に働くチーム。部下や同僚たちの声に耳を傾け、ときには体調のすぐれないスタッフを現地の病院に連れて行ったり、ときには同じ食卓で酒を飲み交わし、「共に歩む」とはなにか、ということに気づく。そして彼はその時、感謝の言葉が、ただの挨拶ではなく、人と人とを結びつける根源であると確信した。

    やがて、管理本部長、取締役と昇進。その頃の三菱化工機は、持続的に黒字を生み出せない体質に苦しんでいた。前社長とともに組織改革に取り組み、そのバトンを受け取った田中は先代社長とともにさらなる改革を進めた。自らの経験と人間性を武器に、厳しい経営環境の中で、一歩一歩着実に会社を再生させ、持続的な成長への道を切り拓いてゆくこととなる。

    彼は語る。「今でも挨拶や感謝のことばを欠かすことはありません。当たり前の話かもしれませんが、会社の会議でも、家族との団らんの中でも、結局は人と人のコミュニケーションじゃないですか。私は学生時代を、ある意味人生をドロップアウトしていた期間だと捉えているんですよ。その感覚があるからこそ、相手を慮る姿勢と、双方素直に話せる環境をつくることを大切にし続けているのかもしれませんね。」

    三菱化工機の“いま”

    田中は、会社を単なる利益追求の機械と見るのではなく、社会のライフラインを支える、環境対策やクリーンエネルギーといった未来への希望を具現化する場として捉えている。2050経営ビジョンという壮大な目標のもと、技術革新と人材育成、そして何よりも「感謝の精神」を礎に、会社全体で次世代へのバトンを確実に渡す準備を進めているという。

    プラントエンジニアリングの現場は、時に孤独な作業員が自らの存在を問い、風の音に耳を澄ませながら、無機質な部品が奏でる生命のリズムを感じ取る場所だ。そして温暖化や資源の枯渇といったグローバルな課題は、単なる政策論争の対象ではなく、今や実際の現場での技術革新を促す触媒にもなっている。

    グループ全体で約1,000名の社員の総力で、三菱化工機は持続可能な社会の実現に向けて、まさに環境対策技術の開発と導入を加速させることが急務だと田中は語る。

    面白きこともなき世を面白く

    生涯で日本の未来を見据え、武士の在り方を根本から変えようとした高杉晋作。奇兵隊を組織し、身分制度を打破するという彼の改革精神は、まさに固定観念にとらわれず、常に挑戦を続ける者の姿勢を示している。幕末の動乱の中、高杉はわずか27歳という若さでこの世を去った。「面白きこともなき世を面白く」という辞世の句は、まさに彼の人生哲学に重なる。

    そんな鬼才・高杉が人として崇めていた野村望東尼。彼女が高杉の辞世の句に応えた下の句「住みなすものは心なりけり」は、環境ではなく、己の心の持ちようがすべてを決めることを示唆している。田中こそ、高杉そして野村の至言が体に染み込んでいるといえよう。この世界が面白いものか否か、そして困難に直面したときに挑戦するか否か、結局のところ、決定するのは自分自身である、と。

    「大学の休学、営業職ではなく人事総務としての配属…私自身、自分の考えていたイメージとは異なる現実を受け止めるタイミングが何度もありました。ただ、そのときそのときに腐っていたら、今の自分はないと思うんです。現在の立場では、今まで培ってきた経験が光った瞬間が幾度となくあります。どんな経験もムダにはなりません。いかなるときでも、その状況に感謝し、楽しめるか。それが人生を豊かにする考え方であることに間違いありません。」

    ふと立ち止まってみると、すべての機械そしてエネルギー、双方が重なり合い、時にはぶつかり合いながら、ひとつの物語を紡いでいることに気づかされる。人々は、その物語の中で、自己の存在意義や未来への可能性を見出す。そしてその移り変わりの一瞬一瞬は、まるで心の奥底で密かに燃え上がる情熱のように、確かに、そして美しく存在している。三菱化工機は、まさにその物語の中心にいる。

  • 株式会社クリエイトエス・ディー 瀧屋幸彦

    株式会社クリエイトエス・ディー 瀧屋幸彦

    ドラッグストア業界の革命児

    アメリカの石油業界に革命をもたらしたジョン・D・ロックフェラーは、ただ事業を拡大するだけでなく、業界全体の構造改革を進め、効率性と持続可能性を追求してきた。株式会社クリエイトエス・ディーも、ドラッグストア業界における変革の時代を切り拓いたロックフェラーのオーラを感じさせる存在といえよう。日本のドラッグストア業界において地域密着型の経営を推進し、効率性と持続可能性の観点から新たな価値を提供し続けてきた、まさに神奈川のスタンダード・オイル社である

    現在の代表取締役社長である瀧屋幸彦代表が率いるクリエイトエス・ディーは、1983年に創業され、以来、神奈川県を中心にドラッグストアと調剤薬局を展開してきた。同社は現在、約800店舗を有し、ドラッグストア売上高において神奈川県内で約40%のシェアを誇る。瀧屋代表はこのような業績を支えるリーダーとして、地域社会と企業とのつながりを重視した経営をおこなっている。

    予測不可能な現場で上げ続ける成果

    瀧屋代表の出身地は青森県。高校卒業後、上京しピップ株式会社でキャリアをスタートした。顧客ニーズの多様性や市場の変化を肌で感じながら成長したと瀧屋代表は語る。

    その後、創業者のスカウトを受け株式会社クリエイトエス・ディー(以下、クリエイト)前身である有限会社みどりドラッグストアへの転職を決意する。その背景には、ドラッグストアという新しい業態への期待と挑戦心があった。

    瀧屋代表が入社した当時、ドラッグストア業界はまだ黎明期にあった。薬局が主流だった時代において、クリエイトSDはアメリカのスーパードラッグストアのビジネスモデルを参考に、店舗展開と効率性の向上を追求した。同じ地域内に複数店舗を配置する「ドミナント出店戦略」はその象徴であり、これにより物流効率やブランド認知度を大幅に向上させることに成功している。

    徹底した現場主義と謙虚さ

    クリエイトの社是である「謙虚」は、瀧屋代表の経営哲学の中核を成している。同社では「お客様第一主義」を掲げ、顧客満足度の向上を最優先事項とする企業文化が根付いている。その具体的な例として、パートナーやアルバイトを敬意を込めて「パートナーさん・アルバイトさん」と呼ぶ慣習が挙げられる。このようなコミュニケーションは、社員間の信頼と尊敬を深め、業務効率を高める重要な要素となっている。

    さらに、クリエイトSDは現場主義を徹底。店舗スタッフを顧客に最も近い存在と捉え、その働きが最大限に発揮されるよう、本部スタッフは店舗の支援に専念する体制を築いている。このような「店舗支援型の本部」という発想は、企業の競争力を強化する独自の取り組みとして注目されている。特徴的な施策の一つが、EDLP(エブリデイロープライス)。この戦略は、特定のセール日を設けるのではなく、常に安定した価格で商品を提供することで顧客の信頼を獲得するというものだ。これにより、店舗運営の効率化や在庫管理の最適化が図られるだけでなく、従業員にとっても働きやすい環境が実現している。

    もう一つのクリエイトSDの魅力、それは地域社会との連携だ。クリエイトSDは「お子様ぬりえ販促」など、地域住民との接点を大切にした取り組みを行っている。この企画は、地域の子どもたちに店舗で塗り絵を楽しんでもらい、完成した作品を店内に掲示するというものだ。これにより、家族全員がクリエイトを身近な存在と感じ、結果的に店舗への親しみが生まれる。実際、塗り絵販促を通じて店舗を訪れた子どもが、大人になってからクリエイトSDへの入社を希望した事例もある。地域住民との深い絆が、企業の持続可能な成長に繋がっている好例と言えるだろう。

    瀧屋代表はインタビューで次のように語っている。「私たちは地域のお客様の日々の生活を支えることを最優先に考えています。だからこそ、駅前だけでなく住宅街や郊外にも店舗を構え、地域の方々により近い存在でありたいと思っています。」

    「規模の拡大を目的としない」経営戦略とは

    瀧屋代表は「変化対応業」としての小売業の本質を深く理解している。コロナ禍を経て、生活様式や購買行動が大きく変化する中、クリエイトSDは調剤薬局の併設や食品の品揃えの充実を進め、地域住民の多様なニーズに応えようとしている。

    また、特筆すべきはM&Aに頼らない成長戦略である。その理由について瀧屋代表は「企業文化を守ることが最優先であり、規模の拡大が目的ではない」と明言する。この姿勢は、地域密着型戦略と相まって、同社の持続可能性を支える重要な柱となっている。

    クリエイトSDを「地域の総合ヘルスケアサポート企業」としてさらに成長させることを目指している代表の瀧屋。地域住民にとって、調剤薬局やドラッグストアが単なる購買の場ではなく、未病から治療、介護までを支える存在になるよう、挑戦を続けるという。「私たちは謙虚さを忘れず、お客様・患者様のために何ができるかを常に考え続けます。その積み重ねが、地域と共に歩む企業としての未来を切り開くのだと思います。」瀧屋幸彦というリーダーの存在は、顧客中心主義や謙虚さがいかに企業の成功に寄与するかを示す、現代の好例と言えるだろう。

  • 横浜FC 内田智也

    横浜FC 内田智也

    横浜FCの血液を循環させる者

    プロサッカー界の現実は、美しいだけではない。華々しい試合の裏には、泥臭く戦い続けるスタッフと選手たちの姿がある。勝者がいれば、敗者もいる。歓喜があれば、絶望もある。それがスポーツの本質であり、魅力でもある。

    世界的に見れば、サッカーは単なるスポーツの枠を超え、巨大なビジネスへと成長してきた歴史を持つ。19世紀のイングランドで生まれた近代サッカーが世界各地に波及し、FIFAワールドカップやUEFAチャンピオンズリーグといった大舞台を通じて莫大な経済効果を生み出す存在になったことは周知の通りだ。そして日本でも1993年のJリーグ創設以来、サッカーは地域密着型ビジネスとして独自の進化を遂げている。企業広告やメディア露出、スポンサーシップに加え、地域コミュニティとの連携やホームタウン活動が不可欠な要素となり、スポーツが“勝ち負け”だけに留まらない可能性を見せ始めている。

    横浜FCは、そんな日本のサッカー史の中でもひときわ異彩を放つクラブだ。もともとは1999年に消滅した横浜フリューゲルスを前身とし、サポーターや有志がゼロから立ち上げた市民クラブとしてスタートした。ほかのJリーグクラブと比べ、スポンサー企業やスタジアム環境などの面で恵まれた条件が多いとはいえない。しかし「地域や市民が主体となってクラブをつくる」という希有な成り立ちゆえに、ファンやサポーターとの距離感が非常に近い。運営面では規模の大小を超え、何よりクラブ全体で「社会貢献」「ホームタウン活動」を重視するカラーが際立っている。資本の力だけでは成し得ない、ファンとクラブが一体となる“文化”の構築。それこそが、このチームのアイデンティティだ。横浜の街に根付く青と白のエンブレム。それは、ただのクラブチームの象徴ではない。城彰二、中村俊輔、そして“キングカズ”三浦知良…横浜FCという名のもとに、情熱を捧げてきた者たちの誇りであり、夢であり、戦う理由である。

    そして今、その最前線にクラブスタッフとして立ち続ける男がいる。横浜FC C.R.Oとして活躍するのが、内田智也さんだ。元はプロサッカー選手として横浜FC、大宮アルディージャ、ヴァンフォーレ甲府などでプレーし、現在は横浜FCの“顔”のひとりとも言える存在である。C.R.Oとは、選手でも監督でもないが、アンバサダー的な立ち位置を軸に活動を行っている。更には地域コミュニティ本部長としてもさまざまなステークホルダーとの窓口を担っている。ホームタウン・普及の本部長やスクール事業の統括、さらには保土ケ谷スポーツセンターと神奈川スポーツセンターの指定管理にも携わるなど、一人で四役をこなす。いずれも「サッカーを入り口にして、どう地域に必要とされるか」を考え、現場に足を運び、具体的な行動を起こすための仕事である。「僕の役目は、クラブがより愛されるための架け橋になること。そのためにできることは、すべてやりたいです。」

    ピッチの外での戦い。クラブとファン、地域と選手を結びつける存在としての使命。だが、それは決して簡単な道のりではなかった。

    “小さな巨人”

    内田のサッカー人生は、順風満帆ではなかった。三重県の菰野町で生まれ、幼少期から兄の影響でサッカーにのめり込んだ。166cmと小柄な体格だったが、それでもサッカーが好きでたまらない。じゃあどうするか。彼が出した答えはシンプルで、ひたすらドリブルを磨き、体力を鍛えることだった。体格では負けても、走力とテクニックで勝負すればいい。夜遅くまでグラウンドに残り、筋トレやランニング、ドリブル練習を繰り返した。小柄ゆえのハンデを武器に変えようとする執念は、中学時代からノートをつけて自己分析を続けたことでも表れている。今日のできたこと、できなかったことを書き留め、明日はどう改善するかを考える。夢を叶えるための愚直な努力を3年間続けた。このスタイルは後にプロになってからも活かされ、逆境に対処する糧となっていく。

    四日市中央工業高校時代、全国高校サッカー選手権に出場し、名を馳せた。その後高卒で横浜FCに加入し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。当時J1リーグ所属の大宮アルディージャ、ヴァンフォーレ甲府を経て、2012年、再び古巣である横浜FCへ活躍の場を移した。Jリーグ通算309試合出場、23ゴール。見る人によっては決して華々しいスタッツではないかもしれない。しかし、彼のプレースタイルは、まさに職人のようだった。派手な技よりも献身的なプレー。チームのために走り続ける男だった。

    プロ生活では攻撃的MFとしての才能を発揮し、柔軟なドリブルと運動量でチームの攻撃を活性化した。しかし、内田さん自身は「常にもう少しやれた、という悔いはあった」と語る。競争の激しい世界では、たとえ来季の契約を勝ち取れても、ポジションの保証はない。またチーム内の競争に勝たなければ試合出場の機会は掴めない。怪我や契約、試合結果など常にプレッシャーと隣り合わせなのがプロスポーツ選手の宿命である。

    そして2017年、プロサッカー選手としてのキャリアを終えた後、第二のキャリアへ。C.R.O(クラブ・リレーションズ・オフィサー)という立場で、今もなお横浜FCのために戦い続けている。かつてピッチで駆け抜けたスピードとテクニックは、今やクラブの成長と発展を支えるための知恵と情熱に変わった。

    「すべてはつながっている」

    現在の内田は四つの役職を一手に引き受けている。クラブ・リレーションズ・オフィサーとして表に立って挨拶し、ファン・サポーターとのタッチポイントを生み出し、地域コミュニティ本部長として自治体や企業と連携し、スポーツセンター代表として地域に寄り添い、スクール事業の統括として事業面からスクールの運営に携わる。いずれも「横浜FC」という看板を背負う一方で、地域とのコミュニティを広げていく大事な活動だ。パラレルワークのように複数の役割をこなしながら「すべてはつながっている」という感覚で動いていると本人は言う。

    現役引退後、クラブに戻った当初、内田は「現場の人間」としての視点を捨てなかった。自ら地域に足を運び、自治体や学校と交渉を重ねた。行政との連携は、一朝一夕にできるものではない。活動への理解に時間を要することもしばしば。それでも地道に活動を続けていることで、少しずつ行政側が価値を見出し始めた瞬間があった。そこから、活動は加速度的に広がっていった。

    教育機関と連携した巡回教室や、各区役所と協働して区民DAYの開催、さらには指定管理を持つ各スポーツセンターを通じて障害のある方を対象としたサッカー教室なども定期的に開催。地域スポーツの活性化や普及活動に尽力。スポーツは試合だけでなく、文化として根付かなければならない。その信念が、彼の行動の原動力になっていた。

    また2022年12月、横浜FCは「マルチクラブオーナーシップ」という新たな挑戦をスタートさせた。ポルトガル2部リーグ所属のUDオリヴェイレンセの経営権を取得。日本の子どもたちが世界へ挑戦できるルートを構築し、横浜FC・UDオリヴェイレンセの事業規模拡大はもちろんのこと、日本サッカーの強化・発展にも貢献している。

     彼の仕事観を聞くと、頭の中には絶えず「どうすれば人とつながるか」という問いがあるという。チームの成績が良ければ自然と注目は集まるが、勝ち負けは不確定な要素が多い。それでも、「サッカーを通じてこんなイベントがある」「選手たちと学校でこんな話をした」「スタジアムが地域の人々の交流の場になる」そうした足取りを少しずつ積み重ねることで、人々のコミュニティが少しずつ豊かになる。そこに内田さんは、プロサッカー選手として活躍していた頃とは違う、もうひとつの大きな“やりがい”を見いだしている。

    「クラブがここにあるのは間違いなく支えてくれるファン・サポーターがいるから。その想いを形にすることが、僕の役割です。」

    無駄を恐れるな

    中国・戦国時代の道家思想家・荘子は「無用の用」、つまり「一見無駄と思われるものこそ、大きな役割を果たすことがある」という寓話を通じて、人間が勝手に決めた有用・無用の境界を問い直した。よく引用されるエピソードとして「大木の話」がある。材木としてまっすぐな木はすぐ切られてしまうが、歪んだ木は“役に立たない”と放置され、結果的に生き延びて役に立つ、という皮肉まじりの教えだ。

    振り返れば、内田さんも「小柄な体格」と評価された時期があった。体格のハンデは競争社会において“無用”とみなされかねない。けれど、その無用さに対して愚直に向き合い、ドリブルを研ぎ澄まし、体力を鍛えて克服した。それが結果的に、横浜FCが、Jリーグが認める彼の武器になった。誰もが“目先の勝利”を追いがちなサッカー界で、こうした一見地味な取り組みこそがクラブの基盤を形成し、「無用の用」として真価を発揮している。

    内田さんが見据える事業の未来も、勝ち負けだけにとらわれず、地域に開かれたクラブを維持・拡大していくことにある。ライバルクラブとの比較や経営的なプレッシャーがあるのは当然だが、「続けていけば必ず意味が生まれる」と彼は信じている。

    最後に、若者へのメッセージを聞いてみた。

    「夢を持つことが大事でその大きさは大きくても小さくてもいい。結局、やってみないと分からない。まず動いてみてほしいんです。僕自身もそうでした。小さい身体でプロは無理だと言われたけど、ドリブルを磨けば何とかなるかもしれないと思った。まわりが否定しても、それが大きな価値に化けることは往々にしてある。無駄を恐れず、むしろそこに可能性があると信じてほしいですね。」

    見えない価値を引き出せるかどうかは、その人次第であり、行動次第だ。もし目の前にある道が閉ざされているように見えたとしても、それが新しい道を切り拓くきっかけになるかもしれない。その一歩を踏み出す勇気が、サッカーの歴史を塗り替え、さらには地域の未来をも変える原動力となっていくはずだ。

    そして彼は次のようにも語る。「満足した瞬間、成長は止まります。悔しいと思い続けることが、前に進む力になる。だから、現役世代には伝えたいんです。現状に甘んじてはいけない、と。」

    横浜FCは、これからも戦い続ける。そして、その先頭には、ウッチーがいる。彼の挑戦は、まだ終わらない。

  • 株式会社成城石井 五十嵐隆

    株式会社成城石井 五十嵐隆

    いつも“ワクワク”があるスーパー

    駅やショッピングセンターで目をひく、商品がびっしりと並んだ棚。その光景を前にするとなんだかワクワクする、そんな感覚を覚えたことはないだろうか。

    一歩入れば、すぐに目に飛び込んでくるのは、棚に高く積み上げられた商品群。そして棚を彩るPOPには、「成城石井直輸入」「店長のおすすめ」「成城石井オリジナル」と魅惑的なフレーズが並ぶ。店内には自慢の惣菜やスイーツがずらり。味に妥協しない職人やバイヤーが手掛ける品々が、毎日の暮らしをひとつ上のステージへ導いてくれる…そんなイメージを、成城石井は常に発信し続けているのだ。

    しかし、「高級スーパーマーケット」と呼ばれてしまうことに、執行役員コミュニケーション本部長の五十嵐氏は苦笑混じりに首を振る。「うちは別に“高級”という旗印を掲げているつもりはないんです。“おいしいものを適正な価格で届ける”。そこにとことんこだわってきたら、結果的にそう見られがちになっただけですよ。」と、柔らかな笑顔で話す。その奥には、長い歴史の中で血肉となった「こだわりこそが生き残りの鍵」という確信が感じられる。

    この会社の背後には、大変に人間くさく、情熱的な歩みが脈々と流れているのだ。大量生産や価格競争という安易なビジネスに背を向け、本当においしいもの、価値あるものを提供し続ける。まるで清らかな山奥の湧き水が、無駄を削ぎ落とし純粋な味わいを追求するように、成城石井もまた、丁寧に本質を見つめ続けていることに気づく。創業からもうすぐ100年を迎えようとしているこの企業は、果たしてどんな歴史を育み、そしてどんな未来を描いているのか。

    100年続く追求心のDNA

    成城石井は1927年(昭和2年)、創業者の石井氏による「石井食料品店」としてスタートした。場所は成城学園前駅のすぐそば。現在のイメージからは想像しにくいかもしれないが、当時は果物を中心に食料品を扱うまだこぢんまりとした個人商店だった。

    それでも「成城」という土地柄は特別だった。近くには教育関係者や文化人、映画監督や俳優など、食に対して高い関心と要求水準を持つ人々が集まっていた。「あれが食べたい、こんな商品はないのか」と次々にリクエストされ、それに応えていくうちに、多彩な食料品を扱う“食のスペシャリスト”へと進化していった。

    ところが1970年代半ば、駅前に競合となるスーパーマーケットが堂々と登場した。その圧倒的な品揃えと資本力の前に、石井食料品店は窮地へ追いやられてしまう。「このままじゃ潰される」そう悟ったとき、石井氏は思い切って勝負に出た。

    真っ向から同じことをしていたら勝てない。ならば、自分たちならではの独自の方法で戦おう。

    1976年に「スーパーマーケット化」へと舵を切ったが、それは単なる業態転換に留まらず、「安さ」ではなく「品質とおいしさ」を全面に打ち出す大胆な挑戦だった。当時としてはまだ珍しかった海外輸入の食材やこだわりの調味料を積極的に扱い、手に入りにくい商品を独自ルートで仕入れる。なければ自分たちで作る。その結果、食料品店から始まった小さな店は、独自の品揃えを追求するスーパーマーケットとして徐々に名を馳せていった。

    五十嵐は語る。「うちって昔から、お客様の声にお応えして“なければ作る”っていう発想を、ずっと愚直に続けてきた会社なんですよ。そうやって積み重ねてきた“おいしさの追求”が成城石井の全体を形作っているんです。」その粘り強いこだわりはやがて実を結び、路面店だけでなく、駅ナカの限られたスペースでも高密度に魅力を詰め込む“駅ナカスーパー”としての先駆者となっていく。いつしか関東を中心に店舗を増やし、中部・近畿圏にも拡大。気づけば200店舗以上を展開する企業へと成長を遂げた。

    商品力・売場力・接客力

    いまや成城石井は、全国(正確には関東を中心に北は仙台、西は広島まで)に約200店舗超を構えるまでになった。駅ビルや商業施設、路面店、さらには独自コンセプトを打ち出した大型店など、立地や広さは多彩。

    店舗におり異なるが、取り扱うアイテム総数は大きい店舗では約1万点にものぼる。そしてなにより特徴的なのは「オリジナルブランド」の存在だ。いわゆる「オトク」なイメージがつくプライベートブランドとは違い、品質と味を徹底追求した“唯一無二”の商品が数多く展開されている。さらに、自社のセントラルキッチンをかまえ、そこに一流ホテル出身のシェフやパティシエを多数擁しているのも強みだ。「いわば“自分たちで作って、売る”ためのベースがある会社なんです」と五十嵐は胸を張る。

    こうした商品開発力の高さは、成城石井が誇る「3つの力」のひとつ、「商品力」そのものだ。残りのふたつは「売場力」と「接客力」。売場力とは、どの店舗に足を運んでも「成城石井らしい」と感じられる演出や陳列を保ち続ける力のこと。商品を高く積み上げる大胆さと、きちんとPOPで訴求したい商品をわかりやすくアピールする繊細さが同居し、見る者の好奇心をくすぐる。そして店頭には「今イチオシのもの」が掲示され、季節感やイベント要素もふんだんに盛り込まれる。接客力は、レジでの袋詰めひとつにしても、ただ品物を詰めるだけでなく「お客様が家に持ち帰ったときまで崩れないように配慮する」というきめ細かさだ。「スタッフ研修力を入れており128アイテムはまず最低限の“おすすめ商品”として知識を持つように教育しています。そうすることで『何を聞かれても、気持ちよく答えできる』接客を実現しているんです。」と五十嵐は語る。そんな点からもわかるように、「食が好き」「アイデアを形にしたい」という人が多く集まる社風だという。実際、社内では新製品の開発会議が定期的に行われ、若い社員からも「こういう惣菜を作ってみたい」「こんなスイーツを商品化できないか」という声が飛び交う。大ヒットの裏には数えきれない失敗があるが、次の挑戦へつなぐ土壌がある。失敗を恐れて挑戦しないなんて、絶対的にもったいない…前向きなエネルギーに満ちた雰囲気が、成城石井の社内に流れているのを感じる。

    商品力・売場力・接客力。この3つのちからを同じ基準で全国どこの店舗にも浸透させる。だからこそ、200店舗を超えても「どこへ行っても“あの成城石井”」という安心感があるのだ。

    やって「大」成功を狙え

    日本国内でのさらなる出店はもちろん、海外進出計画にも余念がない。ただし、アパレルのようにシンプルに海外へ拠点を置けばいいというわけではなく、国や地域ごとに宗教や法規制があり、“食”は文化そのものでもある。たとえば「合成着色料しか認められない国」もあれば、「日本で当たり前に使っている原材料が輸入禁止」という可能性もある。

    「まだまだ研究段階なんですよ。簡単にはいかないですが、いずれは海外にも成城石井を根付かせたい。いつか“海外の日常”にもうちの惣菜やスイーツが登場する日を夢見ています。」と五十嵐は笑う。

    また、国内でも出店していないエリアは多い。北海道や、東北や北陸の一部エリア、さらに広島以西の中国・九州地方など、まだまだ出店余地はある。成城石井にとって大切なのは、ただ店舗数を増やすだけではなく、「その土地においしさを届けながら、自分たちのこだわりをしっかりとキープしていけるか」という視点だ。今後は認知度をより高めるための広報・マーケティング戦略を強化し、それにあわせて出店を加速させる。創業100年の大きな節目を目前に、さらに新たな一歩を踏み出そうとしている。

    最後に五十嵐はゆったりとした口調で、しかし熱く語ってくれた。「特に若い方が、失敗を恐れて挑戦しないなんて、そんなもったいないことはない。成城石井だって、今でもチャレンジして失敗するときだって往々にしてあるんです。でも、一回の失敗や挫折から学ぶことは計り知れないですよ。どうせ挑戦するなら、どこかで“大成功”を狙ってほしい。誰もが“あなたのおかげで世界がちょっと変わったよ”と言ってくれるような。そういう挑戦をしてほしいんです」

    まさに、何度も転機に直面し、そのたびに新しいアイデアや手法で乗り越えてきた企業の言葉らしい。成功に甘んじることなく、“おいしいものを提供する”という一点を軸に、ぐんぐんと変化を遂げる成城石井。失敗を恐れずに挑戦し、大成功へと手を伸ばし続ける姿勢は、そのまま若者への熱いエールになっている。

    1927年にひっそりと産声を上げた小さな食料品店が、いまや“こだわりのおいしさ”を発信し続けるスーパーマーケットに成長した。来年にはセントラルキッチン操業開始30周年、そして1976年のスーパーマーケット化から数えて50周年、さらに再来年には創業100周年を迎える。その長い年月にわたる軌跡を貫くキーワードは、やはり「こだわり」だ。調味料ひとつ、惣菜の食材ひとつ、ワインの産地ひとつにしても徹底的に品質を見極め、妥協を許さない。そのストイックさが現在の成城石井を支え、さらに未来の展望を切り開いている。

    五十嵐は言う。「自分たちは運が良かった面もあると思います。でも、それ以上に、やられっぱなしで終わらない、必ず新しいチャレンジをする――それが何よりの強みなんじゃないかと。ここで働いている人間の多くは、食べることが好きで、さらに失敗も楽しめる人ばかりです。これからも、どんどん挑戦していきたいですね。」

    いま私たちが店先で目にするワインや惣菜、スイーツの裏側には、そんな熱い情熱が渦巻いているのだ。何気なく手に取ったチョコレートやパスタソースすらも、「実はすごいドラマを背負ってここに並んでいるかもしれない」と想像するだけで、日々の食卓がちょっとだけ色鮮やかになる。成城石井という看板は、単なるスーパーマーケットの名にとどまらない。それは「食を愛する人間の、底知れないこだわり」の象徴でもある。そして、まだ見ぬ未来へ向けて準備中の数々のイノベーションが、私たちの暮らしにどんな新しい風を吹かせてくれるのか。ここから先の物語が、ますます楽しみになってくる。

  • 株式会社JVCケンウッド 長谷川美峰子・千堂莉英

    株式会社JVCケンウッド 長谷川美峰子・千堂莉英

    横浜から広がる技術革新

    京浜工業地帯の一角にあり、内陸には静かな街並みが広がる新子安。東京湾に隣接する地域は、ただの未開の荒野ではなく、鋭い感性と挑戦のエネルギーが交錯する新たなビジネスフロンティアかもしれない。ここには、過去の歴史が静かに積み重なりながらも、未来への大いなる可能性を秘めた荒削りな原石が転がっている。

    注目すべきは、その戦略的なロケーションだ。東京湾に面し、首都圏とのアクセスが容易でありながら、未だに開発の可能性を多く残すこの地はまるで、荒野に咲く一輪の花のよう。静謐な環境の中に潜む無限の可能性は、ビジネスにおける“新境地”を象徴している。

    株式会社JVCケンウッド。かつて家庭のリビングに広がる音楽と映像の魔法は、今や移動空間にまでその恩恵を及ぼし、我々の生活を豊かに彩っている。また、長年培った無線技術が人々の安心・安全な生活に寄り添う。グローバルな市場で展開される製品群は、ただ単に機能を提供するだけでなく、人々に心地よい感動と、安心感をもたらしている。

    本社ビルの大きなガラス窓から見下ろす横浜みなとみらいの街並みにぎやかで、でもどこか非現実的なまでに整然としている。まるで、ここからはじまる未来を象徴しているようにも見える。

    経営統合はあくまでも通過点

    日本ビクターとケンウッドという伝統ある2社が経営統合したのは2008年。両社はそれぞれ映像・音響・無線の分野で長い歴史を持ち、激動の時代をくぐり抜けてきた。技術の融合によって未来を拓く…そんな旗印は美しくとも、実際には多くの摩擦や戸惑いがあったことは想像に難くない。日本ビクターが誇る映像・音響技術と、ケンウッドが磨き上げた無線音響・車載技術。2社の技術が結晶し、新たな価値を世の中へ提示することこそが会社にとっての使命だった。

    しかし、いざ経営統合が成った途端、リーマンショックの大波が襲いかかり、世界経済は混乱の渦に巻き込まれた。スマートフォンの浸透や韓国や台湾、中国メーカーの台頭により、日本の民生機器業界が厳しい局面を迎えた時期でもあった。まさに四面楚歌の状況で、ひとつの企業として生まれ変わったばかりのJVCケンウッドは試されることとなった。経営統合そのものがゴールではなく、そこからどのような製品やソリューションを生み出し、どうやって「感動と安心を世界の人々へ」お届けし、さまざまな社会課題解決へと繋げるのか。それは、社員一人ひとりの覚悟や苦悩、そして希望が折り重なった叙事詩ともいえよう。

    まだ終わらない。その後も、グローバル市場における競争は激化。近年ではコロナ禍が世界経済を再びストップさせるという未曽有の混乱をもたらした。しかしJVCケンウッドはその状況をただ傍観していたわけではなかった。抜本的な損益構造の見直しによる収益性の向上や継続的な事業ポートフォリオの最適化により、強靭な経営基盤を構築。強みを生かせる分野に注力し、世の中がめまぐるしく変容する中で人々の「安心・安全」を守り、生活に「感動」をもたらす製品やソリューションを積極的に世に送り出したのである。基本戦略に「変革と成長」を掲げ、何としてもやり遂げる力強い実行力を培ってきたのだろう。

    そんな苦難を乗り越え、2024年に事業ごとに首都圏に分散していた技術、研究開発、営業、商品企画などの各部門を新子安に集結し、価値創造の拠点「Value Creation Square(バリュー・クリエーション・スクエア)」を創設。新たに「Hybrid Centerハイブリッドセンター」と呼ばれる試験・評価設備を整備した新社屋を建設。その建物に足を踏み入れるとわかるが、それは単なるオフィスやラボの集合体ではない。試作・研究・品質チェックなどを一気通貫で行えるハード面の充実はもちろん、そこには「これから何を生み出したいのか」という未来志向のワクワク感が満ちあふれている。長谷川が語った「いろんな部門が集まってそこから化学反応みたいなイノベーションが起きることを促しています」という言葉どおり、打ち合わせテーブルの周りでは事業や部門の垣根を越えて社員同士が、わずかな隙間時間でも情報交換をしている。自由でいて秩序のある絶妙な空気感が流れているのだ。

    “会社”と“個人”が支え合う

    聞くとビジネスの規模感に驚かされる。何といっても売り上げ牽引役となっているのが、セーフティ&セキュリティ分野無線システム事業だ。警察・消防・救急などの公共安全を支える高い技術力と信頼性は、北米市場で急伸しており、そこから得られる利益は全社収益の心臓部とも言える。モビリティ&テレマティクスサービス分野では、カーナビやドライブレコーダーをカー用品店や自動車メーカーに供給。また、欧州や中国の自動車メーカー向けにスピーカー、アンプやアンテナ、ワイヤーハーネスなどを供給する海外OEMが好調だ。さらに、エンタテインメントソリューションズ分野では、ヘッドホンやプロジェクターをはじめ、かつて両社が培った音や映像を忠実に再現することへのこだわりを継承し、人々の心や生活を豊かにする製品を届けている

    「強みをかしてシナジーを最大化する」──それがJVCケンウッドのDNAと言えるだろう。「映像・音響・無線」で「感動と安心を世界の人々」届けるという企業理念がJVCケンウッドにはいたるところに刻まれている。言葉にすればシンプルで力強いが、実現は決して簡単ではない。しかし、だからこそ挑みがいがあるのだ。

    Hybrid Centerの開発スペース。各種信頼性試験・評価施設が並ぶエリアでは、車が入る広さの電波暗室や無響室などの大型設備も整備し、より充実した研究・開発に取り組める環境が整っている。例えば、無線機がどんなに過酷な状況でも動作するように、つまり消防や警察など人命に関わる現場で通信が途絶えないように仕上げるために、徹底した品質検証が行われる。「私たちが作った無線機が、どこかの国の災害現場で実際に人の命を救うかもしれない。」エンジニアはそんな思いを馳せてスクリーンをチェックする。この企業が掲げる「安心」が、単なるスローガンではないことを痛感する。

    働き方について尋ねると千堂は、「スーパーフレックスタイム制度などをうまく活用して柔軟な働き方をしている人が多いです」と答える。実際、彼女は1年半ほど育児休業取得している。一方の長谷川は、過去2年にわたって2回の育児休業を取得。「正直、不安がなかったわけではありません。でも、在宅勤務とオフィス勤務を組み合わせたハイブリッドワークや、子どもの体調不良時には中抜けルールなどを活用し、出産前とほぼ変わらない働き方ができています。本当に助かっていますし、会社に対する愛着が深まりましたね。」と語った。そこには家庭を理由にキャリアを諦めないというカルチャーがすでに、当たり前に根付いていた。

    価値を創っていく

    1882年、ドイツでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は誕生した。厳しいオーディションを勝ち抜いた一流奏者が集い、指揮者のもとで完璧なハーモニーを築き上げる。ドイツの歴史を刻んだ荘厳な音色と、斬新な解釈を恐れぬ大胆さ…相反する要素を同居させるその演奏は、まるで深い海の底から一筋の光が差し込むように、人の心をそっと照らす。不安の多い時代だからこそ、彼らが生み出す音楽に触れるたび、「大丈夫だ」と思える。静寂から始まる一音が、いつしか壮麗な調べへと成長する。

    JVCケンウッドも同様に、映像・音響無線といった一見別々の分野が、一つの企業理念のもとに有機的に交わり、統合されることで最高のパフォーマンスを生む。オーケストラが観客に感動を与えるように、同社は世界中のユーザーに「感動と安心」を届けようとしているのだ。その意味で、両者はとてもよく似ているのだ。

    まもなく創業100周年を迎える日本ビクターと、80周年へ向かうケンウッドの歴史と伝統。これほど長く愛され支持されてきたのは、時代のニーズを捉えながら、革新を恐れず進化してきたからこそだろう。長谷川は言う。「若い人こそ、ぜひこの会社の未来を一緒につくってほしい。テクノロジーは結局、人が心の底から必要だと感じたものだからこそ爆発的に伸びます。自由な発想で、新しい価値が広がる環境がここにすべて揃っていると感じています。」令和のこの時代、もはや企業と個人の関係は、上下関係や拘束の文脈では語れない。マインドを解放し、新しいサービスや技術を生み出し、そこで生じるリスクや挑戦を楽しむ。それが会社と個人の“共生”のあり方だ。

    音楽を愛し、映像技術に誇りを持ち、無線の最前線を担いながら、人々の暮らしを守り、彩りを添える…JVCケンウッドはそんな企業である。日本ビクターののマーク」ニッパーが蓄音機に耳を傾けたあの日から、およそ1世紀。ケンウッドが祖業の無線事業を始めてまもなく80年。その長いドラマを経て、同社は日本ビクター創業の地・新子安から新たな交響曲を奏でようとしている。そこには「まだまだ先がある。もっと高い場所へ行けるはずだ」という、確かな自信と期待が見え隠れするのだ。

    JVCケンウッドという楽団は、先輩から後輩へ脈々と受け継がれてきた歴史の旋律と、時代のニーズに即した革新的なリズムを重ね合わせ、また次なる100年へとハーモニーを響かせる。結局のところJVCケンウッドは「今」を象徴する場所であり、「未来」を創る場であるのかもしれない。

  • アマノ株式会社 竹本彩

    アマノ株式会社 竹本彩

    ここにも、AMANO。

    朝のオフィスビル。エントランスに差し込む柔らかな光の中、小さな端末に社員証をかざすと「ピッ」という控えめな音が響き、一人ひとりの一日が始まっていく。当たり前のように通り過ぎるその瞬間も、確実に時間が記録されている。

    昼下がりのショッピングモール。駐車場の出口で、一台の車が停まる。ハンドルを握る若い母親は、運転席の窓から駐車券を精算機に差し込む。料金が表示され、支払いを終えるとバーが持ち上がる。日常の買い物を支えるこの仕組みが、穏やかな午後をつくっている。

    夕方の郊外の工場。作業音が響く一角で、銀色の筐体が低い唸りをあげている。舞い上がった粉塵を次々と吸い込み、作業環境の空気を静かに整える。

    夜遅く、人気のないオフィスビルのロビー。一台のロボットが床を動き回り、フロアを清掃している。昼間に残った足跡も丁寧に消し、翌日の準備を整えていく。その様子を遠くから見守る警備員も、少しだけ心が和らぐ。

    日常の至るところで繰り返される光景。その中で、アマノ株式会社の技術が息づいている。勤怠管理システム、駐車場の精算機、作業環境を快適にする装置、清掃ロボットまで、人々の生活を地道に支えているのだ。

    つねに時代のニーズを捉える

    創業者・天野修一が国産初のタイムレコーダーを開発したとき、労働現場は確かに便利になった。それまで外国製の製品を輸入していたが、使いにくさを解決するために、自ら開発を始めたのがアマノ株式会社のスタートだった。勤怠管理の代名詞となったタイムレコーダーは、その後、駐車場の精算機にも応用され、身近な風景の一部となった。

    「時間」を軸に技術を追求する中、アマノは次に「空気」という要素にも着目した。工場作業員が埃や煙に困っていることを知り、最初は輸入品を扱い、後にクリーナーや集塵機などの事業へ発展していった。まったく違う分野に見えるが、そこには「人々の困りごとを解決する」というシンプルな精神が貫かれている。このモノづくりの精神は90年以上、変わることなく受け継がれてきた。

    アマノは勤怠管理システムを通じて、労働環境の透明性を高める手助けをしてきた。現在ではデジタル化が進み、スマートフォンやクラウドを活用した運用も可能になっている。単なる機械を提供する会社ではなく、企業や社会の課題に応じた製品やサービスを提供してきた。

    粘り強く

    「実際に目に見える製品があることに魅力を感じます」と語るのは、広報課長の竹本彩だ。彼女は保険会社勤務を経て、ものづくりへの関心からアマノへ転職。パーキング事業部や経営企画室を経て、現在は広報課長として社内外をつなぐ役割を果たしている。

    広報課の使命は社内のコミュニケーションを活性化すること、と彼女は話す。社内報を電子化し、動画などを活用して社員の声や活動を紹介。またサステナビリティ委員会の事務局として環境保護活動を推進するなど、社会全体への貢献活動にも積極的だ。「業績に直結するわけではありませんが、こうした地道な取り組みが社員のモチベーションを高めることに繋がると思っています。」と竹本は語る。

    会社の雰囲気は伝統的な製造業らしい堅実さを持ちながら、社員は現場に足を運び、直接顧客の声を製品に反映させる柔軟性を持つ。「やると決めれば突き詰める」という粘り強さが、安定的な成長を支えてきた。

    一歩ずつ、しっかりと。

    アマノは今後も「時間」と「空気」をテーマに、新しいテクノロジーや社会のニーズに応じて製品を進化させていく。竹本は「課題は多いですが、一歩ずつ前進していきたい」と前向きだ。

    「誰かの困りごとを形にして解決するのは、ものづくりに限らずどの仕事にも通じます。相手が本当に必要としているものを見極めることが大切」と語る竹本の言葉に、アマノの基本姿勢が表れている。地道な取り組みを積み重ねながら、アマノは社会の課題解決に向けて一歩ずつ進んでいく。

  • 総合新川橋病院 佐野公俊

    総合新川橋病院 佐野公俊

    その姿は名医か、挑戦者か。

    日本の医学史を振り返ると、そこにはつねに“人を救う”という、極めてシンプルでありながら、時に国の制度や社会構造とのせめぎ合いに挑戦し続けてきた先人たちの姿がある。西洋医学の導入期から戦後復興期、そして今に至るまで、医師たちは技術と熱意と研究心を両輪に、世界に劣らぬ成果を積み上げてきた。その歩みは決して平坦ではなく、海外からの情報に翻弄されたり、経済的な制約や法制度に阻まれたりと、幾度となく立ち止まらざるを得ない場面があった。そうした中、日本の医学界は持ち前の探究心と緻密さで障壁を乗り越え、先人の築いたレールを延長しながら独自の高みに向かって発展を続けている。

    そして今、日本が迎えている高齢社会は、まるで医学の総合力を試す巨大なステージだ。ロボット手術、AI診断、血管内治療など、次々と登場する新しいテクノロジー。だが、それらの最先端の道具を使いこなすのは、あくまでも人間だ。先端技術がどれほど発達しても、生身の医師の経験と判断力に勝るものはない、と言う者もいる。なぜなら人体は、一筋縄ではいかない微細な神経と血管の集合体であり、一瞬の判断ミスが命取りになることだってあるからだ。だからこそ、今の日本医学には“技術と人間性の融和”という大きな可能性が眠っている。そこに、医師たちの熟達した技能と、患者に寄り添う丁寧さが合わさったとき、新しい未来図が切り拓かれるに違いない。

    そうした未来への布石を、まさに自らの手で刻んできた医師がいる。脳神経外科医として「脳動脈瘤クリッピング手術の実績」をギネス記録として登録され、あの歌舞伎役者・中村獅童の手術も担当し、そして今なお第一線でメスを握り続ける佐野公俊先生だ。総合新川橋病院の副院長として、週に複数回の手術や外来をこなしつつ、インドや国内各地の若手医師に向けた教育にも力を注いでいる。そのエネルギッシュな姿は、単なる“熟練した名医”という肩書だけでは表現しきれない。むしろ新たな医療の扉を開こうとする挑戦者の顔をもっている、と言ったほうがしっくりくるだろう。

    ギネス保持者の生誕地は防空壕

    1945年3月11日、東京大空襲の翌日に板橋区の防空壕で佐野は生まれた。当時の日本は戦乱の嵐が吹き荒れ、医療はおろか、日々の暮らしさえままならない時代だった。しかし、「祖父や叔父が医師だった」という家族の影響もあり、“医師になる”という思いは幼少期から刷り込まれていたという。一方で、父親は神田で小さな時計屋を営んでいた。店にはピンセットやペンチといった道具が溢れ、幼い佐野少年はそれらを使って器用に工作をして遊んでいた。それが後に脳外科医として不可欠な“繊細な手先の訓練”になったのだと、佐野は振り返る。

    浪人生活を経て慶應義塾大学医学部に進学。そこで待ち受けていたのは、覚悟と情熱を要する外科の世界だった。だが佐野は迷うことなく飛び込む。外科の中でも特に“脳神経外科”は当時、死亡リスクが高いとして忌避されがちな領域だったが、そこにあえて挑む。それは“よりきつい方向を選ぶ”ことで医師としての成長を目指す、佐野の生き方そのものだった。

    卒業後、米軍の横須賀海軍病院で1年間のインターン生活を送り、英語のハンデや文化の違いに直面する。それでも、機知と技術をフル動員してアメリカ人スタッフからの評価を勝ち取り、自信を深める。そこから慶應大学病院に戻った彼は、脳外科の先駆的技術である「顕微鏡手術(マイクロサージャリー)」にいち早く目をつけた。まだ日本ではほとんど導入されていなかった手術用顕微鏡をなんと自費で購入し、毎晩コツコツと練習を積む。スポーツ選手が地道なトレーニングを続けるように、佐野は手先の感覚を磨き続けた。そして実際の手術でも顕微鏡を使うことで、血がほとんど出ない精密なクリッピング手術を可能にしたのである。

    その後、新設の藤田保健衛生大学に移籍し、まだ人数の少ない脳外科部門で多くの症例を手掛けた。三万以上の患者を診察し、一万に近い手術を担当。5,000例にのぼる動脈瘤クリッピングの実績はギネスブックに登録されるという偉業を成し遂げた。一方で、術中に思わぬ心不全や出血に遭遇することもある。そんなとき、経験と準備がモノを言うのは言うまでもないが、それを支えているのは「最後まで諦めない」というタフさと執念だ。佐野は失敗に直面すれば自分を責め、二度と同じ過ちを繰り返さないように徹底的に対策を練る。ビデオを見返して手の動きを研究し、次に生かす。常人なら心が折れそうな場面を、さらに前進する糧に変えてしまうのだ。

    困難こそ本質

    幕末の長岡藩家老・河井継之助は、幕末の激動期に「隣人と国家のため、自己を捨てよ」というような自らの精神を貫き、己の信義と藩の未来のためにあえて苦しい道を選択し続けた人物だ。安易な降伏や妥協をせず、己の矜持を最後の瞬間まで守ろうとしたその姿勢は、表面上は理解されづらい部分もあった。しかし本質的には“自分がやらなければ、誰がやるのか”という、強烈な責任感と使命感に裏打ちされている。

    安易な道を避け、困難の奥にこそ可能性を見いだす。周囲の無理解や制度の壁を突破するために、表舞台からは見えにくい部分で血の滲むような努力を積み重ねる。そして決して孤高に陥るわけではなく、あくまでも「困っている人を救う」ことや「次世代に道を残す」ことを最優先に考える。河井継之助が長岡藩の先を見据えていたように、佐野もまた「日本の医学の可能性」を見据えている。その情熱は、医療技術の先にいる患者と後進の医師たちに注がれている。

    現在も、佐野公俊の情熱は衰えない。総合新川橋病院での診療と手術、それに並行してインドや国内の若手医師に対する指導を続けている。インドでは「佐野動脈手術学校」という形で現地の医師たちの前で実際の手術をモニター越しに見せながら解説を行う。日本でも難症例のビデオセミナーを開催し、貴重な実地経験を伝授する。このように第一線に立つ外科医が惜しみなく知識と技術を開示することは、今後の日本医学にとっても大きな財産であることは間違いない。

    本人はまた「いくつになっても体力づくりと気分転換は大事ですからね。」と語り、40歳から始めたテニスも今なお週に数回のペースで続けている。体力維持もまた、一つのプロフェッショナルの条件なのだ。

    何のために戦い続けるのか

    今後、血管内治療やロボット手術、そしてAIの導入によって医療の現場はますます革新が進んでいくだろう。だが、佐野は決してその進歩を頭から否定しない。その一方で、医師が手を動かし、その手に伝わるわずかな感触をもとに瞬時の判断を下す。まさに人間の直感と経験に支えられた部分は、今後も色褪せることはないと信じている。テクノロジーに過剰に頼りすぎれば、難症例に出会ったときに“引き出し”が足りず、患者を救えなくなるかもしれない。だからこそ、日々のトレーニングや術前の入念な準備を怠らず、一度体得した技術を磨き上げ続ける。その姿は河井継之助のように“いま勝つため”ではなく、“未来を繋ぐため”に懸命に戦うかのようだ。

    若者へのメッセージとして、佐野は常々こう語る。「安易な道へ行っては自分が伸びない。よりしんどい道、きつい方向に行くのが成功への近道」と。実際、苦労を避ければ一時的には楽だが、その先の視野が狭まってしまう。やりたいことが見えたときにこそ、そこへ飛び込んで挑む覚悟が大切なのだろう。河井継之助がそうであったように、“いま”だけではなく“未来”を担う責任感を背負い、時には人が行かない道を行く強さ。佐野は自身の技術と経験を武器に、まさにそのメッセージを体現している。

    病院の廊下をスタスタと歩きながら、佐野は患者やスタッフに笑顔で声をかける。大事なのは“相手をよく見ること”だ、と言わんばかりの気配りがそこにはある。技術を磨き、経験を積み、そして目の前の人を救うために力を注ぐ。河井継之助の「隣人と国家のために自分を捨てる」精神は、医療の場における“患者や未来の医師のために尽くす”という形で見事に受け継がれているのかもしれない。

  • 株式会社ハドソン靴店 村上塁

    株式会社ハドソン靴店 村上塁

    想い出を“治す”靴屋

    1961年創業のハドソン靴店。その歴史は、商店街の一角に刻まれた日本の伝統の証であり、ひいては革靴修理という分野に、職人の魂と物語が密かに宿る場所だ。先代・佐藤正利氏の情熱と技が受け継がれ、28歳の若さでそのバトンを握った村上塁。彼の手掛ける事業は、単に傷んだ靴を直すのではなく、時の流れの中で歩み続けた人々の足元に刻まれた記憶を再び息吹かせる。それはまさに「想い出の修復」であり、同時に、失われゆく技と情熱を未来へと繋ぐ架け橋でもあるのだ。

    「日本一の靴職人になります」

    幼少期から、村上は自らの内に潜む「ものづくりへの衝動」と、周囲の期待との狭間で揺れ動いていた。学歴に対するコンプレックス、大学中退…これらは一見、失敗の連続のように映るが、彼はそれらを一粒の土として積み上げ、己の原点とした。靴の専門学校で「日本一の靴職人になります」と堂々と宣言したその瞬間、彼は自らの未来を切り拓く決意を固めた。師と出会い、己の限界を超えるべく鍛え抜かれた日々は、痛みと苦悩に満ちていたが、これこそが彼を「職人」として、また一人の人間として成長させた大切な時間であったともいえよう。

    浅草での修行時代、そしてその後の独立。村上は修理と製造の狭間で、何度も己の信念を試されたと語る。製造の華やかな技術の数々は、彼に一瞬の輝きを与えたが、本当に情熱を感じたのは、壊れた靴を修復するその瞬間だった。

    顧客の想い出が宿る一足一足に、彼は心血を注いだ。「靴は、歩む者の記憶を映す鏡なんですよね」と彼は力強く語る。その作業は、まるで時を巻き戻し、過ぎ去った日々の記憶を甦らせる儀式のようであった。「靴の神様」ハドソン靴店初代店長である佐藤氏の教えを受け、「日本最高峰の靴職人」と称される関信義氏に師事した日々は、単なる技術習得を超え、彼にとって生きる上での哲学となった。

    現代の靴業界は、かつての栄光や温もりを徐々に失い、機械生産の波に押され、手作業の価値が薄れていく。しかし村上はこう考える。「失われた技術と情熱こそ、未来への希望の種である」と。浅草時代、わずか500円で修理を行いながらも、彼は日々技術を研ぎ澄まし、今や「ハドソン靴店」として確固たるブランドを築いた。

    彼が歩んできた道は、決して楽なものではなかった。日本の伝統と現代の革新が融合するこの現場から、次世代の職人たちへと、確かな技術と情熱の火が受け継がれていく。

    ストーリー性を求める現代

    時代は日々変化する。顧客の価値観も、大きく揺れ動いている。かつてフルオーダーが主流だった時代から、今では「ストーリー」を求める現代人が主役となる。村上はその変化を敏感に察知し、事業の舵を大胆に切った。失敗とされてきた修理の蓄積が、新たなビジネスチャンスとなり、修理業に専念することで逆境をものともせず、確固たる地位を築いた。彼は語る。「我々は、ただ修理を行うだけでなく、時を超える思い出を再生させる仕事をしています」

    今、彼は工房の移転や後進育成に力を入れ、単なる技術継承だけでなく、働く環境の改善、つまり一般企業並みの福利厚生、退職金制度、そして全社員が安心して働けるシステムの構築に挑んでいる。「技術とは、魂を込めた一釘一糸の結晶にほかならないと思います。ただ、その魂を込める人間自体に魂がなければ意味がありません。頑張れば報われるというような言い方も気軽に肯定できない今の時代で、職人自身が一心不乱に魂を込められる環境を整えることが大切だと切に感じています」と彼は語る。その言葉通り、彼はただ修理をするだけでなく、職人としての生き様そのものを未来へと継承しようとしている。

    横浜という港町は、常に世界との狭間に位置している。大海原を見据え、荒波を乗り越えながら、その根底に流れるのは「日本人らしさ」、すなわち細部に宿る美意識と「土台を大事にする精神」である。村上はこの伝統の中に自身の情熱と生き様を見出し、現代へと昇華させる。彼は、華やかな新製品に追われるのではなく、顧客一人ひとりの足元に刻まれた物語を丹念に修復することで、真の価値を創造するのだ。

    “修理屋”を超えた存在

    今、ハドソン靴店は単なる修理屋ではなくなった。人々の記憶、情熱、そして誇りが再び息吹を吹き返す場所であり、現代日本における「職人魂」の象徴である。村上の「思い出の修復」という理念は、触れる者すべてに、時間を超えた価値を提供する。日本の伝統と革新が交差するこの現場から、次世代の職人たちに、そして世界に誇れる一つの文化として、確かなメッセージを発信し続けるのだ。

    彼の挑戦こそ、ただの靴修理に留まらず、日本のものづくりの魂を後世に伝える壮大な物語だろう。

    村上塁、そしてハドソン靴店。彼の眼差しは、過ぎ去った時代への敬意と、これから訪れる未来への希望に満ち、今日もまた、一足の靴を手にもつのだ。

  • 北浜こどもクリニック 北浜直

    北浜こどもクリニック 北浜直

    川崎市高津区の“駆け込み寺”

    戦国時代、越後の龍と称された上杉謙信は、戦場での圧倒的な強さと共に、義を重んじる精神で知られていた。彼は自身を「毘沙門天の化身」と信じ、私利私欲を排し、人々のために戦い続けた。そこには、単なる勝利への執着ではなく、弱き者を救い、正義を貫こうとする強い信念があった。その精神は、時代を超えて受け継がれ、現代にも通じるものがある。

    医師・北浜直。もちろん刀が交差する戦場で彼は戦うことはない。しかし、子供たちの命と未来を守るという使命の下、日々戦い続ける姿には、どこか戦国の英雄と重なる部分がある。

    北浜こどもクリニックは、単なる医療機関ではない。「子供たちの味方であり、ママたちの味方である場所でありたいんですよね」と語る北浜院長。そこには「子供たちが恐れずに訪れることのできる場所」、そして「ママたちの駆け込み寺」として機能する、温かくも革新的な小児科である。

    病院で出会ったあるジレンマ

    北浜院長の医療の原点は、彼自身の幼少期にある。彼は幼い頃から子供たちに慕われ、まるで磁石のように周囲の子供たちが集まる存在だった。その経験が漠然と「子供と関わる仕事をしたい」という思いへとつながり、次第に小児科医への道を意識し始めたと語る。

    高校時代には物理学に興味を持ち、本気で天文学者になることを夢見たこともあったが、結果的に彼は、直感に従い医師の道を選んだ。医学部に進学し、新生児科を専門に選んだ彼は、大病院で経験を積みながら、次第にあるジレンマに直面する。北浜院長が大病院での勤務を通じて感じた「患者との距離が遠くなること」という葛藤である。

    大病院では昼も夜もなく、患者との密接な関係を築くことが難しい。特に新生児科では、命を救うために精一杯尽くすが、患者との関係は一方通行になりがちだった。彼はもっと近くで子供たちの成長を見守り、家族と深く関わることのできる医療を志向するようになった。これこそが、彼の医療観を形づくる決定的な転換点だと言えるだろう。そして2010年、川崎市高津区に「北浜こどもクリニック」を開院したのである。

    ママさんこそ手厚いケアを

    梶が谷駅が最寄りである北浜こどもクリニックには、明確な哲学がある。それは「子供たちに余計な苦痛を与えない医療」を実践することだ。一般的に小児科では、子供が嫌がろうが泣こうが、必要な処置は強行されることが多い。これは在る種仕方のないことだと、往々にして片付けられることだ。しかし北浜院長は、そうした医療に疑問を持っていた。「無理に押さえつけて検査をするのではなく、子供自身が協力できる環境を作るべきではないか?」そうした考えのもと、クリニックでは必要最低限の検査を行うことを前提とし、子供たちが安心して治療を受けられるような雰囲気を徹底している。その結果、子供たちは次に来院するときに警戒心を抱くことなく、むしろ「また来たい」と思うようになるのだ。

    「病院を怖い場所ではなく、安心して来られる場所にしたいんです」と彼は言う。これは単なる医療行為ではなく、一種のエンターテイメントの要素を取り入れた、小児医療の新たな形といえる。クリニックにはゲームコーナーがあり、子供たちは治療を終えるとコインをもらい、それを使って遊ぶことができる。待合室の雰囲気も病院らしさを排除し、まるでテーマパークのような空間になっている。結果として、病院に来ること自体が子供たちにとって楽しい体験となる。

    北浜院長が重視するのは、子供たちだけではない。母親、特に育児に疲れ果てたママさんのケアも大切にしている。最近では核家族・ワンオペ育児が当たり前になり、母親たちの負担は計り知れない。彼らが健康でなければ、子供たちも健やかには育たない。

    そのため北浜こどもクリニックでは、母親たちがリラックスできる環境作りを進めている。例えば、美容と健康のためのプラセンタ注射を提供したり、医療相談だけでなく、精神的なサポートも行っている。またオンラインサロンも開設し、時には母親たちが息抜きできるよう、育児の負担を減らすための情報提供にも努めていると院長は語る。

    “義”を貫く医師として

    北浜院長が目指すのは、単なる小児科医ではない。彼は「子供とママの駆け込み寺」を目指し、どんな悩みでも受け止める存在でありたいと考えている。子供の健康だけでなく、母親の精神的な負担、さらには進路や恋愛相談まで含めて、幅広く対応する場を作りたいのだ。

    彼の医療に対する姿勢は、まさしく上杉謙信の義の精神に通じるものがある。医師としての責任を果たし、困っている者を見捨てない。その信念こそが、北浜こどもクリニックを唯一無二の場所へと押し上げている。

    この場所には、単なる医療を超えた、人と人との温かい繋がりがある。北浜直という医師は、まさに現代の戦場で戦う「義の医師」なのだ。

  • 有限会社共栄車輛サービス 田村俊一

    有限会社共栄車輛サービス 田村俊一

    海老名で闘い続ける経営者

    物流業界、それは経済の血流だ。だが、華やかさもなければ、誰もが羨む仕事でもない。誰かがどこかで荷物を動かし、誰かがどこかで車を走らせる。食べ物が届くのも、家が建つのも、すべてはこの見えない流れによって支えられている。

    神奈川県海老名市は、古くは相模国の交通の要所として栄え、江戸時代には宿場町として発展した歴史を持つ。近代に入ると工業地帯としての顔を持ち始め、高度経済成長期には首都圏の物流拠点としての役割を担うようになった。都市と郊外の狭間に位置しながら、物流の要衝として成長を遂げてきた街だ。東名高速道路が貫き、幾千もの車両が行き交う。その片隅に、有限会社共栄車輛サービスの拠点がある。

    人はどれほど壮大な理想を語ろうと、現実を生き延びなければならない。家賃を払い、飯を食い、社員の給料を支払い、そしてまた翌日を迎える。そして、現実と闘わなければならない。決して、きれいごとではない。

    ここ海老名に、闘う男がいる。田村俊一。有限会社共栄車輛サービスの代表取締役として、会社の命運を背負いながら、数えきれない試練をくぐり抜けてきた男だ。

    「助けてほしい」

    田村は52歳で代表取締役に就任した。だが、その道のりは平坦ではなかった。先代の父が急逝し、すべてが突如として彼の肩にのしかかった。会社の口座のありかすら分からず、支払い期限は目前に迫る。周囲が凍りつく中、彼は真正面から銀行に向かい、すべてをさらけ出し、支払いの猶予を願い出た。銀行の冷たいカウンターの向こう側で、資金が底をつく恐怖と対峙しながら、彼はひとつの答えを見出した。それは「生き延びること」だった。

    「助けてほしい」と正直に伝えた。普通なら資金は凍結され、会社は倒産、田村の物語は終わっているだろう。しかし、彼の誠実さと胆力が奇跡を生んだ。銀行は彼を信じた。結果、彼は一歩目を踏み出すことができた。

    それだけではない。その当時、会社は4000万円の債務超過だった。資産はトラック数台のみ、売却しても文字通り焼け石に水だった。それでも彼は歩みを止めなかった。1年間、3時間の睡眠で働き続けた。経営を学び、数字を分析し、営業に飛び回った。弟との確執もなんとか乗り越え、ついに会社に呼び戻すことに成功。結果、売上は右肩上がりに増加。現在では設立当初の2倍以上という驚愕の数字を叩き出している。

    徹底した現場の尊重

    彼の経営スタイルは異端だ。一般的な物流会社の在り方を覆し、営業と運送を分業化した。彼は徹底して現場を尊重し、会社の利益を最適化する方法を模索し続ける。そして、債務超過だった会社を立て直しただけでなく、新たな事業を次々と立ち上げた。そして合同会社共栄自工、有限会社共栄陸送を設立。すべては未来の物流を見据えた戦略だった。

    だが、経営戦略以上に彼が大切にしているものがある。それは「人」だ。社員の生活を守るために、利益の大部分を給与に還元している。ある年、ドライバーの年収を100万円以上引き上げた。その結果、会社には若い力が流れ込み、組織は活性化していった。

    彼の言葉には重みがある。「今の時代、社員は家族以上の存在。経営者は社員の生活を守る義務があります。」それは単なる理想論ではない。彼自身が最前線に立ち、誰よりも汗をかいてきたからこそ、言葉が響く。

    苦しみの中でこそ人は成長する

    19世紀ドイツの経済思想家ヴェルナー・ゾンバルトは『近代資本主義』の中で、企業家の「英雄的精神」を説いた。企業を単なる利益追求の場ではなく、社会を変革する使命を持つものとして捉えた。田村こそ、まさにヴェルナーの視点を持つ稀有な経営者といえよう。

    彼の挑戦はまだ終わらない。物流業界は大きな転換期を迎えている。2024年問題と呼ばれる労働規制の強化が到来し、ドライバー不足が深刻化している昨今。だが、彼はこの危機をあえてチャンスと捉える。「既存の枠組みにとらわれない最適な輸送ネットワークの構築」を目標に掲げる彼の視線の先には、新たな物流の形が見えているのだ。

    若者たちへ、彼はこう語る。「苦しい時ほど、実は自分を試せる絶好の機会なんです。乗り越えた先にしか、本当の成長はない。ですが乗り越えた瞬間、今までとは全く異なる景色が広がると思います。」人は苦しみを避けたがる。しかし、苦しみの中でこそ、人は本当の力を知る。田村はそれを体現した。彼の人生は、教科書に載ることはない。だが、確実に何かを変えている。

    田村俊一という男は、単なる経営者ではない。彼は海老名でこれからも闘い続ける。組織のため、社員のため、そして未来のために。

  • 株式会社ROLLIE 小林大貴

    株式会社ROLLIE 小林大貴

    海風をまとう金色の若武者

    湘南。その名を聞けば、歴史と自然が織りなす風情豊かな海辺の街並み、時を超えて息づく伝統と新しき風が共存する楽園のような場所を想像する。そして海岸線に広がる柔らかな砂浜や、潮の香り漂う風景、太陽を全身で受け止めるサーファーたちの姿が脳裏を瞬く間にかすめる。ここは、古くから波の音に耳を傾け、潮風に心を洗われる場所であり、同時に現代の様々な活力が交錯するエネルギッシュなフィールドでもある。

    そして湘南は、決して“海のレジャー”だけが魅力ではない。古くは鎌倉幕府が置かれたこの地域には、武家文化を色濃く残す歴史の足跡がある。それは瓦屋根の寺社や険しい山道、そして今も残る人々の気質までを支えてきた「武士の魂」とも言えるようなものだ。暖かな気候と独特の海洋文化、そしてかつての武家が培った誇り高き風土…この相反するように見える二面性こそが、湘南の奥行きの深さを匂わせているに違いない。

    そんな湘南の地に根ざし、地域医療の未来を切り拓くべく、株式会社ROLLIEは訪問看護ステーションという形でその存在感を示している。そして、その先頭に立つのが、情熱と知性、そして「大胆細心」というモットーを体現する小林大貴代表である。一見すると穏やかで、介護と医療のあいだを静かに取り結ぶ仕事…そう思うかもしれない。だが、そのイメージをエリーは鮮やかな黄色いバイクでひっくり返す。湘南の街を駆け抜ける真っ黄色な車両。そこには、医療従事者としてのプロ意識と同時に、「街をデザインする」という遊び心や情熱が乗っているようにも見える。

    「好きな街に住み続けたい人のために、そして自分たち自身が“ここが好きだ”と言える街を守るために何ができるか。」そう問いかけながら、小林は“看護師”の枠を超えた事業経営に挑んでいる。その姿勢は、さながら大胆不敵な武芸者が一瞬の隙を突いて剣を振るうかのような、“攻め”の姿勢そのもの。けれども、足取りが軽やかなのは、まるで肩に背負うものがないかのように見えて、実は小林自身がこれまでに多くの挑戦と痛み、そして自分を奮い立たせるいくつもの“激流”を経験してきたことに由来するのだろう。

    “安定”という脆さ

    物語を少し遡ろう。小林氏は東京都町田市出身。母親が看護師だったとはいえ、当初は航空機の整備士を目指したり、バイクをいじるのが好きだったりと、自らの将来像をはっきりと見いだせない時期があったという。多くの若者が抱える「安定したいけれども、何か燃えるようなことをしたい」という衝動と不安定さ。彼もまたその迷いの中にいた。

    小学生時代、クラスの前で作文を読み、涙を流すほどに内面の葛藤を抱えながらも、高校生になると周囲の期待に背中を押され、応援団長としてのリーダーシップに初めて挑戦。そこから、自分が見た「内弁慶な自分」と、他者が見た「堂々とした自分」とのギャップに気づき、その両面性を武器に変えていったのだ。22歳の時には、エイサー団体の会長として、東日本大震災後の復興支援に奔走し、福島の地で人々に元気と希望を届ける。その経験が、彼の胸に「人の命や生活を大切にする」という確固たる信念を刻み込んだのである。

    「人を相手にした仕事がしたい」という思いが強まり、看護師の道を選ぶ。現場では無数の困難と向き合いながらも、常に現場の声に耳を傾け、真摯に仕事に取り組んできた。帝京大学病院では、高度救命救急センターと神経内科の厳しい環境の中で、命の重さと向き合う日々を過ごし、先輩看護師からの熱い指導を受けながら、医療従事者としての自覚と誇りを深めた。特に、師長から「自分の家族だったらどう思う?」と問われた言葉は、彼の看護観の根幹となり、「大切な人の大切なものを大切にする」という理念へと昇華していく。

    一方で、若いうちから「訪問看護」に興味を抱いたのは、実際に病院という組織の中で働くうちに、「安定」というものが意外にも脆く見えたからだ。大病院でも経営の赤字や人員不足があり、看護師だからこそ味わえる苦労と限界が見えてきた。さらにはキャリアの選択肢も、病院内で役職を上げるか、専門分野を極めるかくらいしか思い当たらなかった。けれど、彼は“もっと自分の手で、未来を作るにはどうすればいい?”と考え始める。

    誘いを受けて訪問看護の世界へ飛び込み、新規拠点の立ち上げや管理職を任される。しかし、そこでは一筋縄ではいかない経営の荒波とぶつかる。社長との方針の違い、スタッフの引き抜き問題……若き看護師がいきなり経営の最前線を踏むことは、彼にとって“自分が何者でありたいか”を再定義する作業でもあった。最終的には自らが代表となってエリー訪問看護ステーションを興す。その決断の背景にあったのは、自分と同じように働く若い看護師やリハビリスタッフ、特に妊娠・育児を代表するように、女性がライフステージの変化を迎えながらも、安心して働き続けられる場所を作ること。それを実現するには、訪問看護ステーションを複数出店し、周囲の店舗が互いに連携し合う仕組みを作らねばならない。逆説的に言えば「規模の拡大が、個人の幸せを守る最短ルート」であったのだ。

    看護師が駆け回れる足場づくりを

    とはいえ、ただの量的拡大には終わらない。“湘南という街そのものを元気づける”という思いはまるで通奏低音のように流れている。バイクが好きだから、ただバイクに乗るだけではない。“黄色い”バイクにこだわり、街の中で目立ち、むしろ風景の一部になってしまおうとする発想…まるで湘南の海辺に押し寄せる波のごとく「医療」の仕事を一気に身近に感じさせるための演出だ。

    多くの人は医療や介護を必要とする瞬間を、まだ“遠い出来事”としてしか捉えられない。たしかに、それは必要とされる時期が来るまで、実感することは難しいだろう。だが、人生のどこかのタイミングで必ず訪れる在宅療養という現実。そこへ届ける看護・リハビリを「かっこよく」見せて若い人材も「もし自分や家族が困ったら、ここがある」と地域住民も、全員がポジティブに向き合えるように仕掛けていく。その大胆さこそがROLLIEの真髄である。

    彼が成し遂げてきたことは、まさに「二刀流の構え」を彷彿とさせる。訪問看護ステーションという医療サービスの提供者でありながら、人材育成や仲間のライフステージを支える経営者としての顔を持つ。まるで宮本武蔵が、両手に持った刀をまったく違う角度とリズムで操り、対峙する敵に対して間合いを崩させるかのように、小林は“医療のスペシャリスト”と“経営者”という、二本の刀を華麗に使い分けているわけだ。

    プロフェッショナルとしての現場への強烈なこだわりは今も消えていない。「医療のプロとして察し、人として大切にする」という行動指針は、スタッフ一人ひとりの業務に染みついている。救命の最前線で叩き込まれた“本気”は、そのまま訪問看護の現場に溶け込む。ほんの数十分の訪問であっても、その時間にすべてを注ぎ込み、利用者の方と家族の人生に寄り添う。それは血と汗と涙を知る看護師でなければ発せられないオーラであり、“アドレナリンが出る仕事”を愛する彼ならではの根っこの強さだ。

    そしてもう一方では、ビジネスオーナーとしての冷静な目線が在る。各拠点の人員配置、夜間オンコールの仕組み、スタッフが妊娠や出産しても負担が重くならないように店舗網を組み上げる。あくまでスタッフがイキイキと働ける土台を築くことこそが、利用者へ安定したサービスを届ける前提になる。その理詰めの組み立て方は、宮本武蔵が著した『五輪書』の「地の巻」で述べられる基礎・足場づくりにも通じるかもしれない。武蔵が芸術的な剣筋を振るうためには、足元が崩れていてはならない。看護師たちが自由に駆け回るためには、しっかりとした組織と経営基盤が不可欠なのだ。

    地域医療のモデルケース的存在へ

    宮本武蔵が“二刀流”を確立したように、小林も“医療”と“経営”という二刀を同時に振るうことで、これまでの訪問看護ステーションがもつ常識を超えるサービスを作り出している。その姿はポジティブであり、周囲を鼓舞する。利用者もスタッフも「この人がいるならきっと大丈夫だ」と、安心感をもらえるのではないだろうか。

    エリーの今後の展望は、訪問看護という枠を超えて“地域医療のインフラ”となることにある。看護師やリハビリスタッフに加え、ケアマネージャーや介護福祉士などを自社でまとめあげ、いつかは有料老人ホームの運営すら視野に入れる。それは要介護者が「好きな街」で、病院ではなく自宅や施設で最期まで過ごせるようにするためだ。家族が安心して支えられる仕組みを作りたい。その一心が、次なる拠点へ、そしてさらにその先へと彼を突き動かす。

    最後に、若い世代へのメッセージを小林は紡ぐ。「準備ばかりしている暇があるなら、一歩踏み出せ。自分が不足しているところは、動きながら見つければいい。」宮本武蔵もまた、書を捨てずとも、実践を通して己の剣を磨き続けた。多くを考えて足がすくむより、まずは動き出し、その過程で不足を補い、次なる戦いへ挑む。それが“大胆細心”という言葉の真髄ではないか。

    令和という新たな時代に突入し、訪問看護はこれまでの歴史を踏まえつつも、幾多の光と影を映し出している。家庭で迎える看護師の笑顔は、単なる医療行為を超えて、孤独や不安を抱える人々に寄り添い、希望の光をもたらす。その一方で、高齢化社会が進む中で、訪問看護を担う人材の不足、激しい労働環境、そして医療資源の分散という現実は、制度の根幹に疑問を投げかける。家族が支える介護の中に、専門職の力が必要とされる一方で、その負担は時に個々の努力だけでは到底補いきれない壁となって立ちはだかる。だからこそ、これからは社会の変容とともに、訪問看護は柔軟にその形を変えていくことが求められる。医療費の抑制、在宅での生活支援、そして地域コミュニティの再構築…これらは訪問看護が担うべき多層的な使命かもしれない。国家や地方自治体の支援、そして何よりも現場で働く看護師たちの熱意と創意工夫が、未来への扉を開く鍵なのだ。私たちは、単に過去を振り返るだけでなく、その積み重ねが示す可能性を信じ、新たな医療のかたちを模索していく責務がある。

    湘南の海に映えるROLLIEマークが描かれた黄色いバイクは、まるで新時代を告げる疾風のように街を駆ける。武士の歴史を宿すこの地で、病や障がいを抱える人々に「安心して暮らせる明日」を届けるという挑戦。大きな夢を描きながらも、一瞬一瞬に全力を注ぐ姿勢には、宮本武蔵の剣の軌跡がある。そして、それは決して特別な人だけの物語ではない。誰もが、自分を奮い立たせる“剣”を持ち、実際に振るってみればこそ、新しい風景が開けるのだ。

  • 医療法人社団都筑会 吉岡範人

    医療法人社団都筑会 吉岡範人

    挑戦したまま終わらせない

    横浜の一角にある「関内レディスクリニック」の扉を開けると、穏やかな照明やモダンな内装が目に入る。だが、その奥へ足を踏み入れれば、単なる医療機関の枠を越えて事業を広げる人物がいることに気づくだろう。

    医療法人社団都筑会の理事長・吉岡範人。産婦人科の医師でありながら、訪問看護や居宅サービス、ECサイトの立ち上げ、さらにはコンサルティングまで行う稀有な経営者である。

    週7日・24時間対応という異次元のハードワークを貫きながら、「失敗を失敗のまま終わらせない」という独特の信念で現場を切り盛りする姿は、従来の医療人像からは大きくかけ離れているように見える。実際、彼のもとには収益が伸び悩む病院やクリニックから「何とかしてほしい」という依頼が相次ぐ。通常であれば敬遠しがちな厄介事でも、彼は躊躇なく飛び込み、自らアドバイスとサポートを行いながら、地道に改善を重ねて成果を上げていく。本人に言わせれば「失敗は日常茶飯事」だが、そこで諦めないのが肝心なのだという。

    気持ちに正直な経営者

    吉岡本人は、千葉県出身。聖マリアンナ医科大学で産婦人科を学んだ後、先輩医師との縁から「つづきレディスクリニック」に迎えられた。それまで20年以上クリニックを支えてきた前院長が病気で退くなか、「若い自分が引き継ぐのは荷が重い」という迷いも一瞬あった。しかし、持ち前の行動力と粘り強さで周囲との信頼関係を築き、気づけばグループ全体を取り仕切る理事長となった。

    吉岡が最も大事にしているのは「失敗を諦めにしない」という姿勢だ。検査結果に問題がなくても症状が消えない患者がいれば、治療法を何度でも切り替え、改善が見られるまで試し続ける。「それは医療の枠を超えて、経営の面でも同じ」と彼は言う。実際、大学の産婦人科に勤務していたころから、婦人科腫瘍のみならず周産期や思春期のがん、不妊分野まで多岐にわたる診療をこなし、さまざまなケースで試行錯誤を重ねた経験が土台になっている。

    特筆すべきはその“働き方”と言っていいだろう。先述の話は嘘八百でもなんでもない。週7日、夜間対応も辞さないのだ。眠気や疲労があっても、新しいアイデアや患者の声に向き合っている時は「しんどいと思わない」という。山梨のクリニック再生を支援した際も、オンラインでスタッフの話し方を細かく指導し、一人ひとりの能力を丁寧に引き出すことで短期間で成果を出した。「小さいアクションを積み重ねることが最終的な飛躍につながる」と、地道な改善をいとわない。その一方で、自宅を空ける日が多くても「やりたいと思うことは諦めたくない」と笑う様子からは、“情熱”という言葉だけでは形容しきれないエネルギーが感じられる。

    MBA顔負けの鬼才

    現在の主な事業は、クリニックの運営、ECサイトでの低用量ピル提供、医療機関の経営再生コンサルティングの三本柱だ。吉岡自身は「すべて感覚で進めている」とさらりと言うが、よく見るとハイレベルなマーケティング理論に適っている点が多数ある。例えばリーン・スタートアップやMVPアプローチを体現しているのは間違いない。特に病院再建のケースでは、大きな投資をする前に“話し方”や“オペレーションのちょっとした工夫”といった小さな単位を検証・改善しながら成果を伸ばす。一度の試行に終わらず、成功するまでトライを続ける姿勢は、まさに「実践→検証→修正」を繰り返すリーン思考そのものだ。

    さらに、吉岡の強みは「医師免許を持つコンサルタント」というその希少性にある。経営のフレームワークを医療の現場目線で落とし込めるため、他の専門家が手を出しにくい領域を開拓している。まさにブルーオーシャン戦略の体現者だ。その強みの基盤として、産婦人科の知見だけでなく、経営者として幅広い分野での“トライ&エラー”を積んだ経験が支えになっている。本人は「日々の失敗の積み重ね」と言うが、その裏には理論だけではなく、患者やスタッフのリアルな課題を掘り下げる姿勢がある。

    スタッフとのかかわりも特徴的だ。彼は「教育」という言葉を嫌い、必ず「同じ目線で協働する」ことを大事にしている。例えばパソコン操作に長けたスタッフがいれば、その人にシステム管理を一任。苦手分野は他がカバーし合い、結果として全体のクオリティを高めているのだ。それを支えるのは「頑張る人が報われるよう、給与や福利厚生をアップさせる」という吉岡の明確な方針にある。家族とレストランに行く機会を提供したり、スタッフ自身がリフレッシュできる仕組みを整えたりと、組織を維持する手腕にも舌を巻く。

    “なぜ”そうなのか考え抜け

    彼はいつも、「なぜそうなっているのか」を考え抜き、つねに自分に落とし込む努力を惜しまない。どんなに失敗しても諦めず改善し続ければ成功の糧となる、というのが彼の信念だからだ。

    「拙速は巧遅にまさる」これは安田財閥の創始者・安田善次郎が残した言葉とされる。完璧を期して時間をかけすぎるより、まずは荒削りでも行動し、そこから得た知見をもとに修正・改善を繰り返すほうが最終的には大きな結果を得られるという意味だ。吉岡の姿勢を思い起こせば、まさにこの言葉を体現している。

    安田善次郎が金融から保険、証券へと多角化を図り、得た資産を社会へ還元していったように、吉岡も医療のみならずECやコンサルなど異なる分野へ進出しながら、周囲と協力し合い社会の課題解決に貢献している。多忙を極める中でもスタッフが活躍できる場を整え、家族ぐるみでサポートする姿勢は「皆を幸せにしたい」という利他的な思いの表れに他ならない。

    この先、吉岡が「女性が一つのビルに行けば全てが完結するような大型施設を作りたい」と語るように、彼の頭の中にはまだまだ数多くの“やりたいこと”が詰まっている。そのビジョンを「大風呂敷」と笑う人もいるかもしれない。しかし、「実際に動き出すことでしか生まれない成功が間違いなくあります。」と彼は言う。

    吉岡範人。その行動力は単なる“頑張り”という言葉では表現しきれない。結果的に医療界の常識を変えるような大きな成果を残すのか、あるいは新たな分野にまた挑むのか。いずれにしても、彼の“失敗を諦めにしない”エネルギーに満ちた旅はまだまだ終わりそうにない。

  • 株式会社サニタ 津田康徳

    株式会社サニタ 津田康徳

    健康を創るという新常識

    地域の健康を支えること。それは単なるビジネスではなく、社会における重大な責務であり、時に壮絶な覚悟を要する。そんな大きな使命を背負い、ひたむきに歩み続けている経営者がいる。

    津田康徳。株式会社サニタの代表取締役であり、医療と福祉の領域において、既成概念を打ち破りながら新たな価値を生み出し続ける男だ。創業当初から地域医療の充実に全力を注ぎ、時に困難に直面しながらも、決して歩みを止めることはなかった彼の姿勢は、単なる事業家ではなく社会変革の旗手とも言える。「地域にとって必要な存在であり続ける」この言葉を胸に、津田代表は日々奮闘を続ける。彼にとって経営とは、利益の追求だけではなく、人々の生活に直接寄与するものでなければならない。調剤薬局、整骨院、デイサービス、訪問医療…すべての事業が一貫して健康というテーマで繋がっているのは、彼のこの強い信念があるからだ。

    彼の眼差しは常に未来を見据えている。地域社会に根付いた医療を提供するためには、単に現状維持では足りない。新たな技術やアプローチを取り入れながら、常に進化し続ける。津田康徳は、経営者としての鋭い洞察力と、地域住民に寄り添う温かさを兼ね備えた稀有な存在といえよう。

    はじまりはたった一軒の調剤薬局

    サニタの歴史は、一軒の薬局から始まった。昭和47年(1972年)、横浜市の商店街に誕生したその小さな店舗は、地域の人々にとって身近な存在であり、健康を支える拠点として機能していた。しかし津田代表が引き継ぐころには、経営の拡大を求める時代の流れとともに、大きな変革の必要に迫られていた。そこで彼は単なる薬局の経営者にとどまることなく、新たな可能性を模索し続けたのである。彼が目指したのは「地域社会に根付く包括的な健康支援」の実現であった。つまり薬局としての役割を超え、より多面的なアプローチを取り入れるべく、調剤薬局を中心に、柔道整復師、栄養士、介護福祉士など、各分野の専門家が連携する総合医療サービスの構築に乗り出した。

    この挑戦は従来の医療機関の枠を超えた、新しい形のヘルスケアビジネスへの進化を意味していた。調剤薬局は薬の提供だけではなく、患者に寄り添い、日々の健康相談を行う場として機能し、整骨院では専門的な施術を提供しながら、健康維持と予防医療を支援する体制を整えた。また、デイサービスでは、要介護者や高齢者がより良い生活を送れるよう、専門的なリハビリテーションと介護を組み合わせたサービスを提供。さらに、訪問医療事業を展開することで、通院が難しい人々にも適切なケアを届ける体制を整えていった。

    こうして、サニタは単なる薬局の枠を超えた「地域密着型の総合健康支援企業」としての地位を確立していったのである。その根底にあるのは、「人々の健康を支えるためには、単なる治療ではなく、未然に防ぐ仕組みを提供しなければならない」という津田代表自身の信念であった。「私たちは、病気になってからの治療だけではなく、健康を維持し、より良い生活を送るための支援を提供しなければならない。それが地域に根差した医療機関としての役割なんです」と彼は語る。今日、サニタは調剤薬局、整骨院、デイサービス、訪問医療といった多岐にわたる事業を展開しながら、地域社会に必要不可欠な存在として進化を続けている。

    サニタが“異端”である理由

    現在、サニタの事業はただの医療機関の枠を超えている。「健康」という本質的な価値を軸に、地域の人々の生活全般を支える存在へと進化しているのだ。

    サニタの調剤薬局事業は単なる薬の提供にとどまらず、薬剤師が直接健康相談を行い、患者一人ひとりに寄り添ったケアを提供している。また、整骨院事業では、独自に開発した「サニタ式ストレッチ」を導入し、症状の根本的な改善を目指す。デイサービス事業では、介護とリハビリを融合させることで、高齢者が健康を維持しながら充実した生活を送れるよう支援している。さらに、訪問歯科や訪問医療事業も展開し、通院が難しい患者のもとへ直接専門スタッフが訪れ、適切な医療を提供している。このように、サニタは「健康をトータルサポートする企業」として、社会に新たな価値を提供している。

    津田代表の経営哲学の根幹にあるのは「人材」だ。組織の成長は、そこに集う人間の成長によって決まる。彼は従業員一人ひとりの能力を最大限に引き出し、個々が専門性を活かしながら組織として機能する環境を作り上げていると語る。

    医療の中原統一を目指して

    サニタを率いる津田代表は、革新を恐れず、未来を見据え、人と組織を成長させながら社会に貢献する。その姿はまるで、乱世を生き抜いた曹操のようだ。状況を冷静に分析し、時代の流れを見極めながら最善の一手を打ち続ける曹操。「英雄とは時代の先を読み、道を切り拓く者なり」という彼の言葉が示すように、津田代表もまた、変革の時代に立ち向かい、新たな可能性を追求し続ける経営者である。彼の歩みは、サニタという企業を通じて、これからも社会に新たな価値を生み出していくだろう。

    そんな津田代表の描く未来は明確だ。「サニタに行けば、すべてが揃う。健康のことなら、まずサニタに相談すればいい。」

    ビジョンを実現するため、社内保育園の創設など、従業員が働きやすい環境の整備にも尽力しているサニタ。医療の枠を超え、社会のインフラとして機能する企業へ…サニタの歩みは止まらない。

  • 株式会社マザーグース 柴崎方恵

    株式会社マザーグース 柴崎方恵

    育児業界を情熱で切り開く女

    子どもが生まれて初めてわかる世界がある。育児というのは、どこまで行っても「初心者」の連続だ。泣き止まない夜に抱きしめながら思うこと。自分ひとりではできないことの多さに途方に暮れる。

    そんなとき助けてくれるのがベビーシッターだ。単に子どもを預かるだけでなく、食事やお風呂の世話、遊び相手や宿題のサポートなど、多岐にわたる役割を担う。最近では、語学や芸術的な教育を取り入れたサービスも登場し、子育てのパートナーとしての期待も高まっている。

    一方で、ベビーシッターを頼む側の意識にも変化が見られる。かつては「他人に子を任せる」ことに抵抗感を抱く人も多かったが、共働き家庭や核家族の増加を背景に、その抵抗感も薄れてきた。シッターを利用することはもはや贅沢ではなく、生活の一部となりつつある。

    1994年、神奈川県茅ヶ崎の片隅でひっそりと芽吹いた一筋の情熱が、今日では子育て支援という大海原を切り拓く礎となっている。株式会社マザーグースは、はじめは柴崎自身が自分の子どもを預けるベビーシッターが近所になかったがゆえに、ベビーシッター請負業として誕生した会社だったが、その後、保育園運営、企業内保育、院内保育、さらには人材サービスや新規事業へと多角化し、今や全国に21施設を展開するまでに成長した。創業者であり代表取締役会長である柴崎方恵氏は、幼い頃から家族や仲間たちとの温かな絆を背景に、自らの直感と実践力で「働く親が安心して子どもを育てられる環境」を実現するため、ひたむきに挑戦を続けてきた人物だ。

    自分がやらねば誰がやる

    大学を卒業し、かつてはソニーという大企業の一員として働いていた彼女は、結婚を機に退社。自らの子育てで信頼できる保育サービスが見当たらないという現実に直面し、思い切って「自分がいなければ誰が?」という強い使命感に駆られたという。

    最初は、限られた資金と狭い空間の中で、ひたすら試行錯誤を重ねながらベビーシッター業をスタート。その熱意は口コミとなり、やがて大手ホテルへの営業訪問や、地域の病院からの委託依頼へと広がっていった。彼女が「必要だから、やる」と決断した瞬間から、マザーグースは一人ひとりの子どもとその家族に寄り添う温かな光として、地域社会に根ざして成長していったのである。

    創業当初、わずか数室の小さな保育施設で始まったマザーグース。今や保育業界のパイオニアとして、企業内保育やフランチャイズ展開といった形で全国に波及している。柴崎は「子どもたちの未来は、ひとりひとりの輝く笑顔に繋がっている」と紡ぐ。その言葉通り、保育現場においてはスタッフ一人ひとりが愛情と情熱を持って、子どもたちの可能性を引き出すために今も奮闘しているのだ。

    子ども向け「起業家スクール」

    今日のベビーシッター業界には、社会問題として顕在化されている課題も少なくない。例えば、シッター自身の労働環境や待遇が十分に整備されていないケース。勤務時間の不安定さや賃金の低さ、さらには保険やトラブル時の補償など、改善が求められる課題は多い。

    そして現代社会が抱える働く親の悩み…つまり「仕事と子育ての両立」という難題に対して、柴崎は柔軟かつ大胆な発想で取り組む。企業内保育の導入や、24時間体制のベビーシッターサービスなど、時代のニーズに合わせたサービス提供に加え、今後は老人ホームと保育園を融合させた新たなリゾート型施設の構想にも取り組んでいる。

    そのビジョンは単に「高齢者と子どもが共に過ごす」だけでなく、世代を超えた交流と学びの場として、地域全体の活性化に寄与するものだ。

    さらに、子ども向け起業家スクールの構想を通じ、幼少期から金融リテラシーや起業マインドを育む教育に情熱を注いでおり、これまでの経験と成功体験をもとに、次世代に「失敗を恐れず挑戦し続ける」勇気を伝えようとしている。

    茅ヶ崎から広げる愛情

    ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは中世の修道女であり、多彩な才能を持っていた。彼女は次のように語ったとされる。「Laus Trinitati, quae sonus et vita ac creatrix omnium in vita ipsorum est.」讃美と生命、そして創造の根源を音と生命そのものに求めたのだ。これは、すべての存在がそれぞれの生きる場で、自らを創り出し、輝きを放っているという意味であり、つまるところまさに柴崎会長が日々実践していると言っても過言ではない。

    彼女は、ただ利益を追求するのではなく、子どもたちとその家族、そして地域社会全体に「生きる力」と「愛情」を提供することで、真の社会貢献を実現しようとしているのだ。

    柴崎は保育事業を通じて「母なる愛情」と「温かな支え」を提供することが、社会全体を明るく照らす源であると信じて疑わない。そしてその信念は、日々新たなチャレンジを恐れずに挑む姿勢として如実に現れている。その姿を見ると、ヒルデガルトが示した「生命そのものがすべてを生み出す」という教えが、柴崎自身にとっても大きな示唆となっていると、そう思わざるを得ないのだ。

    今、株式会社マザーグースは、単なる保育サービス事業に留まらず、未来への投資として、働く親が安心して夢を追い、子どもたちが自由に羽ばたくことのできる社会の実現に向けた取り組みを続けている。

    柴崎自身も、これから先、ますます多様な分野にその情熱を注ぎ、子どもたちと共に成長し続ける社会を目指す決意を新たにしている。彼女の瞳には、常に「可能性」という言葉が映し出されている。どんなに小さな一歩でも、その一歩が未来を大きく変えると信じてやまない

  • 小泉木材株式会社 小泉武彦

    小泉木材株式会社 小泉武彦

    家づくりの概念を変える男

    横浜市都筑区は、横浜市の北部に位置し、かつてはのどかな田園風景が広がる農村地帯だった。しかし、1994年に港北ニュータウンの開発が進み、都市計画によって緑と共生する街としての姿が形成された。広々とした公園、計画的に配置された住宅地、活気ある商業施設がバランスよく配置され、都心へのアクセスも良好であることから、多くの人々にとって理想の居住エリアとなった。

    ここに根を張り、横浜の未来を見据えて家を建て続ける男がいる。小泉武彦、三代目経営者。彼の人生は、ただの事業継承では終わらない。彼は、この地に新しい哲学を持ち込み、家づくりの概念を塗り替えようとしている。

    「未来は自ら作るもの」

    戦後の焼け跡から立ち上がった小泉木材は、祖父の代に創業され、父の代には高度経済成長の波に乗り、儲けの手段としての材木商売に邁進した。だが、小泉武彦の生きる時間軸は、いわゆる「失われた30年」だったと語る。

    彼の思考の根底には、自らの経験がある。生まれ育った原体験、家庭環境の違和感、「家や家族の豊かさとは何か?」を問い続けた小泉。家はただの物理的な空間ではなく、そこに暮らす人々の価値観や思い出を形作るものだ。だからこそ、彼はただのビジネスではなく、社会の在り方にまで踏み込む住まい作りを志向するようになった。バブルが崩壊し、日本全体が停滞感に覆われる中、彼はただの材木屋の三代目で終わりたくなかった。

    もちろんその道のりは平坦ではなかった。かつての材木業の成功体験にしがみつく業界の旧態依然とした価値観。新しい挑戦に対して懐疑的な目を向ける者も多かった。高性能住宅という概念自体が、一般的な市場ではまだ理解されておらず、投資リスクを指摘する声もあった。

    経営者としてのプレッシャーは計り知れないものだった。資金繰り、事業拡大の戦略、従業員の未来、そして業界に新たな風を吹き込む責任。彼は多くの困難に直面しながらも、信念を貫いた。家をただの「商品」としてではなく「未来を支える基盤」として捉え、人々が安心して暮らせる住まいを提供することに情熱を注いだ。だが、変化の兆しもあった。住環境の質を重視する層が増え、エネルギー問題が社会的課題として認識され始めたことで、小泉の取り組みが少しずつ評価されるようになった。そして彼は確信した。「未来は自ら作るものだ」と。

    小泉木材の“挑戦”

    「自分たちの世代が、この町に何を残せるのか?」そう問い続けた彼は、単なる家づくりではなく、100年後の未来を見据えた「家の概念そのもの」を変える挑戦に乗り出した。彼が求めたのは、高性能で持続可能な住宅。ただ住むための箱ではなく、エネルギーを生み出し、未来の暮らしを支える基盤としての住まい。それは、経済合理性と美学を兼ね備えた、新しい時代の住環境だった。

    現在、小泉武彦が取り組む事業は、まさに未来の住宅の在り方を変える試みである。彼が目指すのは、「この町に暮らす選択肢を変える」こと。そのために、彼は従来の住宅建築の枠を超え、長期的に価値を持ち続ける高性能住宅の開発に注力している。具体的には、長期優良住宅の認定を受け、耐震等級3、耐風等級2、断熱等級7など、現時点で考えうる最高レベルの基準を満たした住宅の設計・建設を行っている。

    さらに、高性能な賃貸住宅事業にも力を入れている。これまで「持ち家」が当たり前だった日本の価値観を変え、賃貸でも快適に暮らせる環境を提供する。高断熱・高気密の住宅を建設し、エネルギー効率を最大化させることで、住まいのランニングコストを抑え、より多くの人が安心して暮らせる選択肢を広げている。

    本質的な幸福を目指して

    19世紀のイギリスで、産業革命の波に抗い、「本物の美」を追求しようとした思想家のウィリアム・モリス。機械が生み出す大量生産の家具や建材に反旗を翻し、人の手による温もりと品質を追い求めた彼の哲学は、経済的な効率よりも、住まう人間の本質的な幸福を重視するものだった。小泉武彦が100年続く家づくりにこだわる理由も、これと通底するものがある。

    「家は、経済の道具ではなく、まさに生きる場であるべきだと思います。」彼の言葉には、モリスに宿る確信がある。100年後の未来に耐えうる家。適切に管理され、手入れされながら住み継がれる家。それが可能になれば、人々は家のために無駄なお金を使うことなく、より豊かな人生を歩むことができる。

     そして、彼は言う。「若い世代には、未来を恐れずに創ってほしい。そう願っています。」過去にしがみつくのではなく、まだ見ぬ可能性を信じること。住まいも、働き方も、生き方も、すべては自分たちの手で形作るものだ。ウィリアム・モリスがアートと暮らしを融合させ、新たな文化を生み出したように。小泉武彦は、住まいと未来を結びつける新しい哲学を、この町に根付かせようとしている。この町に暮らす選択肢を変える。それは、ただのスローガンではない。小泉武彦が生涯を賭けた、未来への挑戦なのだ。

  • 株式会社S.P.COM 小向力

    株式会社S.P.COM 小向力

    看板に情熱を宿らせる会社

    川崎の夜、光る看板がある。その光の裏には、一人の男の熱と覚悟がある。

    鉄と汗の匂いがする多摩川のほとり。人が働き、機械が鳴り、無数の看板が街に命を吹き込む。昼は陽光を反射し、夜は光を纏う。それらの看板の裏側にいるのが株式会社S.P.COMの代表、小向力その人だ。株式会社S.P.COMは、看板のデザイン、製作、施工までを一貫して手がける企業である。単なる広告物ではなく、企業ブランドの顔としての看板を作ることを使命とし、最新のデジタル技術と伝統的な職人技を融合させながら高品質な製品を提供している。

    看板業界は、決して派手な世界ではない。だが、街を歩けば、無数の看板が視界に飛び込んでくる。その一つひとつに込められた職人のこだわりと、企業の思い…小向は、その両方を背負いながら、看板の未来を作っている。

    23歳の跡継ぎ

    小向は決して「跡継ぎ」として育ったわけではない。デザインを学び、己の感性を磨くことに没頭していた。しかし、父の看板会社に入社すると、そこには彼の求めるものはなかった。無機質な仕事、親子の確執、技術と経営の狭間で揺れる職人たち。わずか1、2年で会社を飛び出した小向。だが、父の呼び戻す声があった。そして、突如突きつけられた現実…父の病、そして事業の継承だった。

    23歳、若すぎる社長だった。父はすでにいなかった。指示を仰ぐ相手もいない。社員たちは、不安そうな顔で彼を見つめる。無理もない。看板の見積もりひとつも作れない社長に、誰がついてくるというのか。だが、小向は後ろを振り返らなかった。寝る間も惜しんで仕事に没頭した。経営者というよりも、職人としての技術を叩き込むように、現場の最前線に立った。夜中まで作業し、翌朝も早朝から動き続ける。手を動かしながら、人に教わり、体で覚える。そうしているうちに、経営の本質が見え始める。だが、苦難は続く。頼りにしていた番頭が会社を去ると、社内には看板のノウハウを持つ人間がほぼいなくなった。そこで彼は思う。「もうこれは、俺がやるしかない。」その覚悟が、彼を次のステージへと押し上げた。

    経営とは闘争だった。待っていれば何かが与えられるわけではない。考え、学び、実践し、失敗し、また立ち上がる。仕事が終わるのは深夜。目が覚めればすぐに現場に向かう。時には言いようのない孤独が襲いかかる。それでも止まることはできなかった。看板の設計、製作、取り付け、顧客対応。すべてを自ら学び、実践することで、経営者としての視野が広がっていった。右も左もわからなかった小向は、企業の舵取りを担うリーダーへと進化する。

    そしてただ生き延びるのではなく、株式会社S.P.COMは成長しなければならなかった。「時代に合わせなければ、置いていかれる。」小向は業界の旧態依然とした仕組みを見直し、デジタル技術を導入した。社員全員にiPadを持たせ、図面や発注をクラウドで管理することで、業務の流れを大幅に効率化したのである。職人たちは最初、戸惑い、反発した。彼らはモニターではなく手で仕事をするスペシャリストだ。しかし、効率化された工程を目の当たりにし、次第にその利便性を認めるようになった。技術だけではない。小向は人との縁を大切にした。取引先の言葉に耳を傾け、現場の意見を吸い上げ、社員に働きやすい環境を整えた。信頼を勝ち取るには時間がかかる。だが、一度手にした信頼は、何よりも強い武器になる。

    アイデンティティの具現的存在

    看板は、企業のアイデンティティを形にするものだ。だからこそ、単に「安く作る」「早く納品する」だけでは不十分だ。企業のブランディング、顧客の動線設計、そして視認性の最大化。それらを踏まえたデザインと設置が必要になる。

    徹底して守るべきものは何か? それは「看板を作ること」ではない。「店の顔」を作ることだ。

    「看板はただの広告じゃない。まさに存在そのものです。そこに意志があるんです。」関東を中心に業績は拡大し、全国展開も視野に入っているという小向はこう語る。だが、決して価格競争には陥らない。安かろう悪かろうではない。そこには彼の「真のコストパフォーマンスを極める」という独自の哲学がある。

    挑戦する人間のさだめとは

    実業家の五代友厚は、激動の時代の中で西洋の知識を取り入れ、日本の近代化を推し進めた。彼が信じたのは、「国を支えるのは商人である」という考えだった。小向もまた、商売を通じて社会を豊かにするという使命を持っている。彼が掲げるのは、単なる看板製作ではなく、日本全国の企業がより良い発信をできる環境を作るという自負。五代が大阪の発展に尽力したように、小向は川崎を拠点に、全国の景色を変えようとしている。

    現在、S.P.COMの事業は関東圏にとどまらず、東北から関西まで広がっている。しかし、小向は満足していない。次の目標は全国展開。今はまだ、関東以外の地域では地元業者に依頼することが多い。しかし、それでは限界がある。自社の工場を全国に設け、すべての工程を自社で完結させる。それが、彼の次の挑戦だ。

    23歳で経営者になったとき、誰もが疑った。「若造にできるわけがない。」だが、小向は怯まず、現場に出て、顧客と交渉し、学び続けた。その結果、いまがある。未来は待つものではない。掴み取るものだ。五代友厚が大阪を変えたように、小向力は看板業界を変える。そして、街を変える。挑戦は痛みを伴う。しかし、それを避けた者に、何かを創ることはできない。小向の生き方は、まさにそれを証明している。

  • あかね台脳神経外科クリニック 杉本一朗

    あかね台脳神経外科クリニック 杉本一朗

    青葉区民の灯台的存在

    横浜市青葉区。この地域は、豊かな緑と穏やかな街並みが広がり、都市と自然が調和した住環境を提供している。都心へのアクセスも良好でありながら、落ち着いた雰囲気が住民に愛されている。この地に、長きにわたり人々の健康を見守り続ける一人の医師がいる。

    杉本一朗。彼が理事長を務める「あかね台眼科脳神経外科クリニック」は、単なる医療機関ではなく、人々が自らの健康を見つめ直すための灯台のような存在である。

    幼き日の杉本は、父親の胃がんによる急逝という、誰もが背を向けた絶望と無力感に深く打たれた。あの苦い記憶が、彼の心に火をつけ、医学の道へと導いたのである。父の最期を前に、冷たく淡々と告げられた「運命」という言葉。その響きは、決して甘くはなかった。だが、彼は決意した…人の命を救うという、あまりにも重く尊い使命に身を投じると。

    医療観の瓦解、そして再構築

    医学の道へ進むことを決意し、東海大学医学部を卒業後、やがて脳神経外科という過酷な領域へと足を踏み入れた杉本。しかし、彼が見たのは、医療の名の下に繰り広げられる厳しい現実だった。当初は外科医を目指していたと語る杉本。「医者になれば、父のような患者を救えるかもしれない。」そんな希望を抱いて医学の道を歩み始めていた。しかし、大学の臨床実習で目の当たりにしたのは、想像とはかけ離れた医療現場の実態だった。緊迫した手術室の中で交わされる言葉は、まるで患者が単なる「症例」や「作業対象」であるかのようだった。治療すべき「人間」ではなく、処理すべき「ケース」として語られる患者たち。術式の成否を競うような言葉、経過を予想する声、そして時にはその命の行方すら軽んじるかのような会話…。

    「なぜ、命を扱う医療の現場で、こんなにも無機質なやりとりが交わされるのか?」と、強い違和感を覚えた。しかし、今になって思えば、あの時の医師たちもまた、この過酷なシステムの中で、生き残るためにそうせざるを得なかったのかもしれないと、杉本は振り返る。限られた時間の中で多くの患者を診なければならず、常に膨大な責任を背負い、心をすり減らしながら働き続けていた。彼らにとって、感情を押し殺し、医療を効率的にこなすことは、もはや生き抜くための術だったのかもしれない、と。しかし当時の自分には、それがどうしても受け入れがたかった。

    医師とは、患者の命と向き合い、その人生を救う存在のはずだった。しかし、目の前の現実は、自分が信じてきた「医療」とはあまりにも異なっていた。理想と現実の間で大きく揺さぶられた杉本は、問いかけずにはいられなかった――「医療とは、一体何なのか?」と。幾重にも折り重なる運命の中、スーパーローテーションで脳神経外科を経験したとき、彼の医療観はまた大きく変わった。そこには、患者に真正面から向き合う医師がいた。その医師こそ、患者の命を本当に預かる者であり、まさに己の信念に基づいて戦う戦士であった。その誠実な姿勢に雷に打たれたかのような衝撃を受けた杉本は、そこで脳神経外科の道を選ぶ決意を固めた。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた患者を救うため、寝る間も惜しんで働く日々が続いた。脳卒中の患者が後遺症に苦しむ姿を目の当たりにする中で、彼は思った。「そもそも病気にならなければいいのではないか?」と。病気を治すことだけが医療ではない…杉本の信念は、次第に予防医療へと向かうようになった。

    しかし、病院勤務ではこの考えを実現するのは難しかった。しかし、当時の病院のシステムの中では、この考えを実現するのは難しかった。病気の治療に重点を置く医療システムでは、予防医療に力を注ぐことが経済的にも許されなかった。つまり病に倒れた時にのみ手を差し伸べる、いわば『後追いの医』であったのである。

    そこで、杉本は決断する。「結局、自分でやるしかない。そう思いました。」杉本は2003年、青葉区の静謐な町並みに、あかね台眼科脳神経外科クリニックを開業。そこでは、病気を治療するだけでなく、患者が健康を維持できるように導くことを理念とした。都市の喧騒から一歩引いた場所にありながら、豊かな自然と穏やかな人情に満ちた、まさに「いやし」を体現したクリニックだ。

    そんな杉本が追求する新しい医療の形は、ときに「従来の医療の枠を外れすぎている」と批判に晒されることもあった。しかし、それは彼にとって新たな挑戦の合図でもあった。批判を受けるということは、すなわち新しい価値観を提案している証左である。彼は時代の風向きを読み、既存の枠組みに安住することなく、あえて困難な道を選び続けた。「病気の根本原因を探り、日々の生活習慣や環境を改善することによって、病気そのものを未然に防ぐ。これこそ、未来の医療だと思っています。」

    ここは健康「構築」クリニック

    あかね台眼科脳神経外科クリニックは、単なる医療機関ではない。ここでは、最新の1.5テスラオープンボアMRIを活用し、患者の負担を最小限に抑えながら高精度な診断を行っている。また、環境と健康のつながりを重視し、腸内フローラや微生物環境の改善を医療の一環として取り入れるなど、従来の枠を超えたアプローチを実践している。診療だけにとどまらず、栄養学や生活環境の改善指導を通じて、患者が自らの健康を管理できるよう導くことが特徴だ。

    つまりここでは、薬を使うことよりも、生活習慣を見直し、自己治癒力を高めることが重要視される。杉本は、医学とは本来、人間の生命力を最大限に引き出すためのものであると信じているのだ。

    さらに、地域の健康支援として、微生物資材を活用した自然栽培プロジェクトを展開し、収穫された野菜を子ども食堂へ提供するなど、医療と地域貢献を融合させた取り組みも行っている。ここは、病気を診る場所ではなく、健康を創る場所なのだ。

    診るのは病気ではなく人生

    ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場するウリッセは戦争を終え、故郷へ戻るために苦難の旅を続けた。幾度も嵐に巻き込まれ、神々に試され、それでも決して諦めずに進み続けた。誘惑や恐怖、絶望に打ち勝ちながらも、彼は常に故郷を目指し、知恵と勇気で試練を乗り越えた。

    杉本の人生もまた、常識の壁に挑み続ける旅のようである。医療の世界において、確立された価値観に逆らい、新たな道を切り開くことは決して容易ではない。時に批判を浴び、孤独を感じることもある。しかし、それでも彼は諦めなかった。どんなに困難が待ち受けていようとも、患者の健康を守るため、自らの信念を貫き続けてきた。どんなに困難が待ち受けていようとも、患者の健康と向き合うため、自らの信念を貫き続けてきた。

    「どんなときでも、最後は自分の可能性を信じるしかありません。時には壁にぶつかり、社会の常識に押しつぶされそうになることももちろんあると思います。しかし、そんな時でも自分自身の信念を大切にし、目の前の課題に挑戦し続けることで、自分自身は納得できる人生を歩めると思うんです。」

    従来の医療の枠組みに疑問を抱きながらも、新しい道を切り開いてきた杉本。その過程で多くの批判を受けながらも、信じた道を貫き、患者と向き合い続けている。成功への道は平坦ではないが、挑戦し続けることでしか見えない景色がある。だからこそ、若者たちにも、与えられた枠に収まるのではなく、自らの信念を貫いてほしいと願っている。

    杉本一朗という医師は、単に病を診るのではない。彼の目の前には、一人ひとりの人生がある。そして、その旅路を照らす光になろうとしている。

  • きくち総合診療クリニック 菊池大和

    きくち総合診療クリニック 菊池大和

    いつでもウェルカムな町の診療所

    綾瀬市、水曜日の夜。ひと気のない郊外の通りは、ほとんどの店がシャッターを降ろし、明かりは消えている。だが、その中でただひとつ、ガラスのドアの向こうだけが淡い光を放っている。きくち総合診療クリニック──他が閉まる時間にも、ここだけは扉を開け続ける。

    総合診療医としての矜持

    院長の菊池大和(やまと)は、白衣をすらりと身にまとう。ぱっと見はごく普通の医師だが、その佇まいには揺るがぬ意志が宿っている。彼はかつて大都会の病院を離れ、「ただ一つだけのクリニック」を作ろうと決めた。「ありふれた病院じゃなくて、ここにしかない場所にしたかったんだ」と、菊池は言う。その言葉からは、最先端医療と人間らしさを同時に追い求める、彼の背中の熱が伝わってくる。

    綾瀬の「灯台」

    診察室のドアを開ければ、そこには静かに動く超音波機器がある。通りの向こうには町医者らしからぬ、CTスキャンやMRIの入り口が見え隠れする。大きな病院でなければ手に入らないはずの機材が、小さなクリニックの廊下に並ぶ光景は、まるで夜の海に浮かぶ灯台のようだ。緊急外来での経験から、病も人の営みも09時〜17時で区切れるものではないと知っている。深夜の子どもの喘息発作も、日曜の祖母のめまいも、この灯りの下で受け止められる。

    人と向き合うこと

    菊池は、自分を動かす糧を宇宙の探求に見いだすことがある。ブラックホールを「撮る」ために十年を費やした科学者たちの粘り強さ。それは彼が医療に込める、静かなる執念の鏡映しのようでもある。彼の診察には、機械的な手順を超えた「気づかい」がある。深夜にかかってくる電話にそっと応じる声の抑揚、検査前の患者の手をそっと握る、そんな小さなしぐさの積み重ねが、このクリニックの温度を作り出している。

    菊池総合診療クリニックは、この国の片隅で静かに挑戦を続ける存在だ。外が闇に沈むときも、ここだけは明かりを絶やさない。ルーチンと効率が支配する医療の中で、「人と向き合うこと」を貫くために彼はこの場所を灯し続ける。もしあなたが夜道でこの淡い光を見つけたら、少し立ち止まってみてほしい。そこには、強さと優しさを併せ持つ小さな革命が息づいている。

  • タイセーハウジング株式会社 大久保武史

    タイセーハウジング株式会社 大久保武史

    時代に流されず、流れを創る男

    ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

    時の流れは止まることなく、同じように見えても、その本質は常に変化し続ける。鴨長明は代表的な随筆『方丈記』で、この言葉を用いて世の無常を描いた。変わらぬものはなく、人も社会も絶えず変化していく。だが、その変化の中でどのように生きるか、それは今もなお問われるものだ。

    そしてこの言葉は、タイセーハウジング株式会社の代表・大久保武史の生き様そのものを象徴しているかもしれない。彼の人生は、絶え間ない変化そして決断が。安定を捨て、理想の家づくりを追求するために歩み続ける姿は、移り変わる時代の中で揺るがぬ信念を貫く強さを持っている。

    タイセーハウジング株式会社の創業者であり、代表取締役を務める彼は、神奈川県厚木市を拠点に地域密着型の家づくりを行っている。年間50〜60棟に限定し、職人を固定することで、一棟一棟に魂を込める。その姿勢は、大手ハウスビルダーで役員として年間3,000棟を監督していた頃とは一線を画す。

    年収4,000万円より大切なもの

    元々、大久保には独立する明確な意思はなかった。営業職として入社した城南建設株式会社(現住宅情報館)。そこで最年少役員に抜擢され、年収4,000万円、約1,500人の部下を抱えながら、年間3,000棟を管理するというまさに経営の最前線に立っていた。しかし、大手企業の管理職としての仕事は、顧客と直接向き合う機会を奪ったと彼は語る。そして2008年、そんな彼の決意が固まった瞬間が訪れる。「本当にお客様のための家をつくりたい。」そして彼は独立する。

    だが、時代は最悪のタイミングだったと言っていいだろう。リーマンショック。世界経済は混乱し、多くの企業が縮小や倒産の憂き目にあっていた。金融市場は未曾有の大混乱。世界中の銀行が貸し渋りを起こし、多くの企業が連鎖的に倒産していく状況。日本国内でも大手メーカーがリストラを行い、まさに経済の冬の時代が訪れていた。

    「こんな時にやるのか?」誰もが今振り返っても、あの激動の最中で独立をするなんて考えられないに違いない。周囲の誰もが止めた。親族や友人はもちろん、ビジネスの世界で培った人脈も口を揃えて否定した。安定を捨てる理由など、誰にも理解できなかった。しかし彼には明確なビジョンがあった。「今だからこそ、やるべきだ」と、誰よりも強く信じていたからだ。

    「本当にお客様のためになる家を作りたい。売るための家ではなく、住む人の人生を支える家を。」創業当初の苦労は計り知れなかった。資金繰りに奔走し、離れていく社員を見送り、時には孤独に耐える日々もあった。それでも、彼を支えたのは顧客だった。過去の仕事ぶりを信じる人々が、「大久保さんの家を建てたい」と頼ってくれたのだ。その積み重ねが、現在のタイセーハウジングを形作っている。

    “脱・効率化”

    タイセーハウジングの家づくりは、効率化とは対極に位置している。職人を固定し、施工品質を維持し、顧客と深く関わる。大量生産ではなく、1棟1棟をまさに「作品」として扱うのが大久保のこだわりだからだ。

    会社を大きくしないのか?と問われることも多々ある。しかし彼は首を横に振ってこう語る。「しませんよ。それをやると、一気に品質が落ちますからね。」数ではなく、信頼と品質。だからこそ、完成した家を見た顧客が感動してもらうように最大限心がけ、入居後のアフターサービスにも力を注ぐのだ。

    戦国時代には要塞としての役割を果たし、江戸時代には宿場町として繁栄してきた歴史をもつ、神奈川県厚木市。今では神奈川の中心都市として賑やかなこの街で家づくりに人生を捧げている大久保のその歩みは、まさに「魂の家づくり」と呼ぶにふさわしい。

    「何を大切にしたいのか」

    「自分が何を大切にしたいのか、そこだけは見失ってはいけません。」と語る大久保。仕事とは、ただ稼ぐだけのものではない。生き方そのものだ。信頼を築き、誠実に向き合い、自分が誇れる仕事をする。それが結果的に、自分を助けることになる。大久保は、自らの経験を通じて、それを知っている。

    「簡単に成功なんかするわけないんです。でも誰かのためにひたむきに一生懸命やること、そしてその行動こそ正しいと信じ抜くこと。それが最終的に、自分を救うんです。」彼の言葉には、実体験からにじみ出る重みがある。

    そして今日もまた、彼は現場に立つ。図面を睨み、職人と会話し、顧客と向き合う。その目に宿るのは、ひとつの確信だ。

  • 和光産業株式会社 矢口寛志

    和光産業株式会社 矢口寛志

    都市を磨き続ける職人集団

    大倉喜八郎、その名前は大倉財閥として日本経済史における生ける伝説となっている。明治・大正という激動の時代に、己の信念と情熱で企業を興し、数々の逆境を乗り越えてきた彼の歩みは、多くの実業家の模範となった。大倉の物語は、単なる成功談ではなく、社員一人ひとりが自己の可能性に気づき、互いに助け合い、共に未来を築くという生きた哲学である。

    川崎の街は、産業と人情が交錯する活気あふれる場所だ。高層ビルの合間から見える青空、そして手入れの行き届いた緑地。ここ川崎市は、単なる工業都市ではない。人と人との温かな繋がりと未踏の領域を目指す挑戦とが共生する街である。そんな川崎で、まるで大倉の意志を体現するかのごとく、風通しの良い企業文化を実現するために、古い体質を打破し、若い力が自由に羽ばたける土壌を作り上げてきた男がいる。その姿は、川崎の青空の下で、今なお力強く輝き続けている。

    静かに、しかし力強くその存在感を放っている和光産業株式会社。1960年の創業以来、この会社はただのビルメンテナンス業ではなく、都市の快適性を守る「職人集団」として、確固たる地位を築いてきた。同社の舵を握り、時代の荒波を乗り越え、今もなお現場との絆を深め続けているのが、代表取締役社長の矢口寛志である。彼は地元の温かさと厳しさを身に受け、そして海外の大学で日本という国を客観視する経験を経て、自らの経営観を確立していった。

    アメリカで感じた現実

    1959年、矢口は神奈川県川崎市に生を受ける。幼少の頃から父の事業を間近で見て育ち、清掃の現場ではポリッシャーを扱い、社会人になる前からすでに仕事の流儀を身につけていた。しかし、彼はただの二代目ではない。むしろ、そこからの歩みが、彼の本当の物語の始まりだった。大学時代、彼はアメリカへと渡った。日本の枠を超えた視点を持つこと、それが彼の経営者としての感性に大きな影響を与えた。異国の地で学んだのは、何事も自らの手で切り拓くことの重要性。そして、世界は日本の小さな枠組みの中だけで完結しないという現実だった。

    矢口が和光産業に初めて足を踏み入れたのは1978年。親の事業を引き継ぐという運命に身を委ねながらも、彼はただの後継者に留まらず、自らの頭で考え、風通しの良い企業文化を築き上げる決意を固めた。1986年には取締役営業部長に就任し、たった2年後の1988年には代表取締役社長となり、現在もその手腕を存分に発揮するに至る。

    矢口はトップダウンな古い体質を一新し、現場で働く社員一人ひとりのやりがいや成長を最優先に考える経営を推進してきた。彼が実践するのは、ただ数字を追うだけではない。社員とのコミュニケーションを何よりも大切にし、現場の声に耳を傾け、その場その場で最適な判断を下すという、迅速かつ柔軟な対応力である。特に緊急対応時においては、自前の社員が一丸となって動くことで、従来の業界常識を覆す、異常ともいえるレスポンスの速さを実現している。

    利益より大切な「誇り」

    海外の大学で学んだ経験から、日本という国を内側からだけではなく、外側から客観的に捉える視点を得たという矢口。その経験は、彼にとって大きな転機となり、これまでの常識に囚われない革新的な発想の源泉となっている。たとえば、川崎市政100周年のプラチナートナーとして感謝状を受けた時、彼は「この街の未来を、自分たちの手で切り拓いていく」という確固たる決意を新たにした。環境衛生の向上や、床ワックスのリサイクルを通じたCO2削減など、環境問題に対しても積極的に取り組む姿勢は、現代の企業家に求められる社会的責任を見事に体現している。

    そして和光産業は政府との官民連携にも積極的だ。従来、官が行っていた業務を受注できるようになるという大きな挑戦の中で、矢口は「我々がやるべきは、単なるビジネスの枠を超えて、社会全体の利益を追求することだ」と、常に先を見据えた経営戦略を打ち出してきた。神奈川県という拠点において、東京のような過密状態や業者の乱立といった問題が少ない環境を生かし、独自のやり方で地道に事業を展開。その結果、和光産業は着実に成長を続け、従来の柱となる事業を基盤としながらも、新たな分野への挑戦を積極的に進めることで、未来への扉を開いている。

    矢口寛志、この男の信念は明確だ。「働く人がハッピーであること」ただそれが、会社の成長に直結する。そして「現場の人を守る」これはビジネスのためではない。彼の哲学だ。時には、理不尽な要求をするクライアントに対し、毅然と「こちらからお断りします」と伝えることもある。利益よりも大切なものがある。それは、現場で働く社員たちの誇りであり、会社の魂そのものなのだ。

    これからも誠実な商いを

    大倉喜八郎が考え方の手本としていた人物がいる。商人出身の思想家として江戸時代に活躍した石田梅岩、彼は「商いは正直と誠実が基本であり、人を欺くことなく、社会に貢献することで真の利益が生まれる」と説いた。矢口もまた、間違いなく同じ志を持っている。

    未来に向けて、矢口は決して無闇に事業拡大を目指さない。むしろ、質を高め、技術と人材を磨き続けることに力を注ぐ。機械化が進む時代においても、「人間にしかできない仕事」の価値を大切にし続ける。新たな技術を取り入れつつ、最も大切なのは「人」であるという信念を貫いていく。

    「誠実に働くことが、人生を豊かにする。」これは梅岩が説いた「正直の商い」にも通じる考え方だ。働くことは単なる労働ではなく、社会とつながる手段であり、そこに誠実さがあれば、必ず道は開ける。矢口自身が、その証明である。

    和光産業は、単なるビルメンテナンス業ではない。そこには、「働くことの意義」と「人を大切にする文化」が根付いている。この哲学のもと、矢口寛志はこれからも、川崎の街とともに歩み続ける。

  • 株式会社常盤製作所 加藤寛

    株式会社常盤製作所 加藤寛

    日本を代表する精密加工技術

    日本は、長い歴史の中で「ものづくり」という魂を磨き続け、時に荒削りでありながらも、常に革新と実践を追求してきた国である。昭和の風情を残す町工場が、現代の高度な技術と融合し、新たな価値を創出する…それが、今の日本のものづくりの隆興の原点だ。

    1956年、神奈川県鎌倉市に誕生した株式会社常盤製作所は、ネジ部品の加工という小さな工房から始まり、農林業機器やガーデン機器の心臓部とも言えるエンジン周辺部品、特にチェーンソーや草刈り機の命ともいえるクラッチドラムやギアなど、精密加工の技術を武器に成長を遂げた。そんな中で、代表取締役社長・加藤は、家族の伝統を受け継ぎながらも、自らの情熱と挑戦によって事業の未来を切り拓いている。

    100点を出し続ける

    加藤の歩みは、まさに波乱に満ちた「生きる修行そのもの」である。幼少期、父親や先代の背中をそっと眺めながら、近所の工場を駆け回り、時には一番先頭に立って冒険に出る少年時代。家庭に流れる「いつかは継ぐべき」という宿命感と、外の世界に飛び出して自らのブランドを築きたいという熱い思い、その両極端な感情の中で、彼は次第に「ものづくり」の奥深さに気づいていった。学生時代は、ニュージーランドの青い大空の下でスノーボードに情熱を燃やし、北海道の厳しい冬に閉じこもる日々もあった。だが、どんな冒険も最終的には、父の会社に身を投じ、実際の現場で学ぶという運命から逃れることはなかった。

    入社後の彼は、単なる形式的な研修ではなく、まるで魂を込めた修行のような日々を送る。主要取引先の現場に身を投じ、現実の厳しさとともに、どの部品にも命が宿るという強い責任感を学ぶ。さらには企業経営に特化した大学の学びの場を経てきた。製造現場は時に暗く、冷たい油と鉄の匂いが漂う中で、失敗が許されない世界。夜通し、わずかな睡眠の中で働く過酷な日々を体験しながらも、加藤はお客様に要求されている製品精度をすべて満たしている「100点満点」の合格品を、滞りなく出荷し続ける。そこに妥協は一切ない。加藤にとって、当たり前のように合格品をつくり続けることは使命だったのだ。その姿勢は、ただの数字ではなく、現場で働く一人ひとりの努力の結晶であり、彼自身の挑戦の軌跡そのものである。

    国内シェア60%以上獲得の秘訣

    常盤製作所が誇る技術力は、創業以来磨かれた精密加工のノウハウに基づく。農林業機器の中核を担うエンジン周辺部品は、国内外の市場で高い評価を得ており、特にチェーンソーや草刈り機に搭載されるクラッチドラムは、日本国内のシェアの6割以上を占めるとされる。新潟工場の生産ラインは、従来の暗く閉塞的な環境を一新し、LED照明によって明るさを増し、従業員が快適かつ効率的に働ける空間へと変貌を遂げた。さらに、作業ロボットやIoT技術、DX化やRPAの導入により、生産工程の可視化と自動化を実現、時代の最先端を走る現場づくりを推進している。

    加藤は、単に部品を作るだけではなく、そこで働く人々の成長や、組織全体の「人作り」にも力を入れている。若手の採用はもちろん、外国人技能実習生や女性の積極的な採用にも取り組み、ダイバーシティを推進。現場で直接コミュニケーションを重ね、1対1の面談を通じて、各々の意見や問題点を吸い上げる姿勢は、まさに「働く場所が修行の場である」という理念を体現している。彼にとって仕事とは、単なる生計の手段ではなく、自己成長と仲間との連帯感を育む「笑顔あふれる挑戦の舞台」であるのだ。

    つねに楽しく

    平賀源内は、江戸時代を代表する発明家だ。「知恵は実践の中にこそ宿る」という名言を残し、ただの書物の知識にとどまらず、実際の体験や実験を通じて、新たな技術や発明を次々と生み出した。その姿勢は、加藤が現場で血と汗を流しながら、絶えず技術の向上と人材育成に努める姿と、驚くほど共鳴する部分がある。平賀源内が無名の町工場から生み出した数々の発明と、加藤が今なお挑戦を続ける常盤製作所の現場は、時代を超えて同じ精神を共有していると言っても過言ではない。

    加藤はこれからも常に「100点の製品」を追求し、品質と信頼の向上に努めるだけでなく、若者たちに「ものづくりの楽しさ」や「現場でこそ輝く人間力」を伝え続けたいと考えている。彼は、自らの過酷な修行の日々や、失敗から学んだ数々のエピソードを通じて、次世代の技術者や経営者に対して、夢と情熱、そして実践を重んじる姿勢の大切さを熱く語る。若者たちには、日々の現場での努力や試行錯誤が、いつか大きな成果と自信に変わると信じ、挑戦し続ける勇気を持ってほしいと願っている。

    確かに、グローバル競争は厳しさを増し、かつての栄光が色褪せたとの声もある。しかし、世界を見渡せば、精緻で高品質な日本製品への信頼は揺るいでいない。ロボットや医療機器、新素材など、時代の最前線を走る分野で日本企業は着実に成果を上げている。

    かつてないスピードで変化する世界市場のなかで、日本のものづくりは新たな挑戦を続けている。そのDNAは今も脈々と受け継がれ、次の成長へとつながっていく。課題はあれど、進化への期待は大きい。日本の製造業、そして常盤製作所、その底力が今こそ試されるときだ。

  • 医療法人社団恵生会竹山病院 大矢美佐

    医療法人社団恵生会竹山病院 大矢美佐

    竹山団地の“砦”

    “You matter because you are you, and you matter to the end of your life. We will do all we can not only to help you die peacefully, but also to live until you die.”((Dame Cicely Saunders: A Palliative Care Pioneerより)

    「あなたがあなたであるということに価値がある。そしてそれは、人生のすべての日々において変わらない。私たちはあなたが平穏に最期を迎えられることを手伝うだけでなく、あなたが最期の日を迎えるまで生きられるようにできることは全て行います。」

    英国近代ホスピスの母、シシリー・ソンダースはそう語った。病気や年齢によってその人の価値が損なわれるわけではなく、最後までその人らしさを尊重するケアこそが医療の根幹である…この考えは、まさに竹山病院の実践理念そのものだ。横浜市緑区の団地の一角に佇む竹山病院。全床が地域包括ケア病棟となっており、神奈川県で初の地域包括ケア病院として現在も運営されている。そこには、半世紀前に巻き起こった小さな革命の気配が、未だに色濃く染みついているようにも感じる。

    日本の高度経済成長期、人口集中が進む都市近郊にベッドタウンとして、団地のみならず地域の医療を担うため、救急医療、診療所、歯科、産科が配置された。その一角を担ったのが、大矢病院長の父親、故・大矢 清病院長である。昔はまだ救急車がGPSなど持たない時代。地図を見ながら右往左往する救急隊が、少しでも早く到着できるようにと、個人名ではなく“竹山”の地名をそのまま冠して「竹山病院」と名づけた。実にシンプルで直接的だが、それは「地元の⼈が困ったとき、⼀分でも一秒でも早く医療を提供したい」という激情にも似た強い思いの証だったのだ。

    そして時代は流れ、父が他界。バトンを受け取ったのが、現在の病院長である大矢 美佐先生だ。大学病院で循環器内科医としての研鑽を積み、更に都内で地域医療に身を置いていた彼女は、父の死を契機に病院へ戻ってきた。「父が遺した病院を、永続的にこの地に残したい」と決意を固めたとき、彼女の情熱に火がついた。

    大矢式「時代の読み方」

    団地はこの50年で大きく変貌した。かつては家族を築き新居を得た若い世代が1万人を超え、マンモス団地と呼ばれ栄えた。小学校や商店街、歯科、産婦人科などが揃う小さな“街”のようににぎわっていた。しかし年月の経過とともに住民は高齢化し、廃業したクリニックも多い。階段を降りるのがつらいご高齢の方が、処方箋を持って薬局に行くことすら厳しくなった。そこへ目をつけたのが大矢だ。「ならば薬局のほうから上がってきてもらおう」薬局を団地の上部へ呼び寄せ、“足が悪くても薬が受け取れる環境”を整えた。

    この「不便ならば形を変えてしまえばいい」という発想は、竹山病院の取り組み全体を象徴している。単に医療を提供するだけではなく、地域の人々の暮らしを支える仕組みを作り、さらには高齢者のデジタル推進サポートをするため、神奈川大学 サッカー部の学生たちを巻き込み「スマホ教室」を開設した。若者と高齢者が出会い、教える・教わるという関係を超えて、まるで昔ながらの子供会と老人会のような温かな交流が令和に生まれたのだ。その取り組みは、コロナ禍が襲った際にも生きた。ワクチン接種の予約がオンライン化され、高齢者のデジタル活用が必要とされたとき、竹山団地では既にその素地ができていたのである。

    職員の財布の中身は

    白黒テレビは有機ELになり、ラジカセはなくなった。半世紀という歳月は、人々の暮らしを大きく変える。それは地域医療の形も同じで、当時は多くの医師が専門に分かれることもなく、とにかく「なんでも診る」のが当たり前だったとか。竹山病院も例に漏れず、外科・内科の違いを問わず、地域住民が運ばれ来れば即座に対応していた。やがて日本の医療制度が進化し、急性期や回復期、慢性期の役割分担が進んでいく中で、竹山病院は変化を余儀なくされた。しかし、それでも変わらなかったものがある。「家族のような身近な存在として地域のかかりつけ病院になる」という理念と、先代病院長が何よりも大切にした「ここで働く職員を幸せにする」という視点だ。

    患者第一主義は病院として当然。だが、それを支える人々の幸せを見落としては真の医療は機能しない。医師や看護師、職員たちが疲弊していては、患者さんに優しく丁寧なケアを提供するどころではないのだ。先代病院長はそこに着目し「職員の財布をパンパンにすることもまた、何より大切だ」と公言していたという。もちろんそれは金銭だけの話ではないが、「生活の不安があっては、良質な医療はできない」という至極現実的な主張でもあった。患者に限らず職員を家族のように思い、まずは実利を保証しながら誇りとやりがいを持ってもらい、ひいては患者を守る…そんな考えが、今も竹山病院に脈々と受け継がれている。

    街は変えられる

    地域医療は、どんなに改革が叫ばれても病院や自治体だけでは限界がある。だからこそ、大矢は「自分たちだけで抱え込まない」アプローチを好む。自治会や社協、民間企業や大学と連携し、“それぞれの垣根を飲み込んでしまう”ようなイメージで動いているのだ。更に有志住民と“未来先取り倶楽部”を創設し、その活動を広げた。竹山病院は、もはや単なる医療機関ではなく、「住民が安心して生ききるために必要なすべてをバックアップする場所」になりつつある。そして、そうした新しい地域包括ケアの形が、横浜市や各方面からも注目を集めている。 語り口は柔らかいが、その裏に燃え上がるエネルギーは果てしなく凄まじい。「地域包括ケアシステムは必ずしも限られた地域で完結しなければならないという枠組みにしてはいけない。必要ならばさらに外へ広げていくことも必要」 という攻めの姿勢。昔は父が民生委員第一号として地域の隅々を知り尽くしたように、現代の大矢はデジタルや若者とのコラボでエリアを拡張していく。すでに新駅の開通に合わせ、 隣接区への医療連携を強められないかと思案しているという。その言葉には、ひとかけらの疑いや迷いもない。ただ、やるしかないですよね、と笑う。その根底にあるのは「最期までこの地域に暮らしてほしい。そして暮らせるようにする。」という⼀貫した使命感だ。

    竹山病院は高齢者救急と回復期のケアを主体に、患者が自宅に戻れるようリハビリや生活支援を徹底して行う。もし自宅へ戻れないなら、特別養護老人ホームや老健施設への案内や連携で、住み慣れた地域での生活を保つ手立てを講じる。医療と福祉を垣根なく組み合わせながら、「もう⼀歩、自分の足で立ちたい」と願う人たちの背中を押すのだ。そこには強烈な使命感と、まさにシシリー・ソンダースが説いた“生きることへの包括的なまなざし”が確かに宿っている。

    「自分たちの街を良くするのは、行政だけでも学校だけでもない。自分たち自身かもしれない」。この言葉は、大学生を巻き込んだスマホ教室でも証明された。若者は高齢者にスマホを教え、 高齢者は人生経験から来る豊富な知恵を若者に伝える。いつの間にか“教える側”と“教わる側”が入れ替わる。それは古い時代の子供会や老人会が果たしていた役割のアップデート版とも言えよう。大矢はそこで芽生えた人のつながりが、やがて竹山団地を第二、第三の全世代コミュニティに変えていくと期待している。

    最前線を突き進め

    かつての日本では、藩医や寺院医が各地で診療所を構え、住民の健康を守る温かな現場があった。江戸時代から、地域に根ざした医療は人々との対話の中で発展し、明治以降の西洋医学の導入と共に技術革新を遂げながらも、伝統的な医療の温かさはその根幹に息づいた。そして今日の日本は、急速な高齢化と都市部への人口集中という複雑な問題に直面している。かつての診療所が象徴する温かいコミュニティ医療は、医師不足や地域間の格差によりその在り方が問われる中、ICT技術の発展により遠隔医療やオンライン診療といった新たな医療形態が生まれている。これにより、伝統的な対面医療の良さと、先端技術による効率化が求められる今、各自治体や医療機関は、地域の特性を活かした持続可能な医療提供体制の確立に向け、日々挑戦を続けている。

    地域医療はもはや“お医者さんごっこ”ではない。予防や福祉、教育やデジタルまでもが絡み合い、大きな渦となって街を巻き込んでいく。そして、その渦の中心に立つのが竹山病院であり、大矢美佐なのだ。父の遺志を継ぎつつ、新たな風を吹かせるこの女性院長の姿勢は、シシリー・ソンダースの名言が示す「人生最後の日まで、その人としての尊厳を保証する」ことを、ローカルコミュニティという最前線で実現しようとしているようにも映る。

    彼女は、未来を見据えている。コロナ禍であっても、もしくはその先に来る少子高齢化の荒波を前にしても、「この団地と病院が一つになれば、まだまだやれることがある」と信じて疑わない。大きな理想や完璧な準備は要らない。スマホ教室しかり、団地の商店街との連携しかり。最初は目の前のひとつの段差を埋めるだけでいい。でもそのひとつの行動が、やがてはまわりまわって地域全体を動かすエンジンになる。竹山病院はその証左だと言っていい。

    地域医療の歴史を振り返れば、そこには常に“人”がいた。誰かの熱意、誰かの助け、誰かの笑顔。それらが重なり合って、この地域を治療する“器”を作り上げてきた。そして今、大矢の手に受け継がれたその器は、新しい時代のかたちへと変貌しながら、なおも拡大を続けている。ソンダースが生涯かけて訴えた「その人の存在自体が尊い」という言葉を、自分の生まれ育った土地で体現しようとする大矢先生。その歩みは、竹山団地を中心に今も力強く続いている。人と街が互いに補い合い、最後まで人生を全うするための医療をどう創り上げていくのか。竹山病院の軌跡は、間違いなく地域医療の可能性を示すひとつの輝くモデルとなるだろう。

  • 株式会社市川電設 市川 雄士

    株式会社市川電設 市川 雄士

    相模原を照らす魂

    相模原。神奈川県北部の政令指定都市。東京の喧騒からほんの少し離れたその場所は、近代と伝統、先進と郷愁が絶妙なバランスで交錯する、不思議な空気をまとった土地だ。ひそかに、そして確かに電気と通信の命脈を孕んでいる、そんな相模原の大地にひとつの企業が佇んでいる。市川電設、その名は今や電気設備業界の片隅ではなく、力強い存在感を示すまさに相模原が誇るブランドとなっている。

    そして、その背後で鋭い眼差しを持ち、まるで風雨をものともせぬ武士の如く、己の信念を貫く男がいる。彼こそ、市川雄士である。彼は、決して最初から順風満帆だったわけではない。むしろ、激動の人生を歩んできた。彼の生き様は、時代の激流の中で自らの信念を振りかざし、古い慣習を打ち砕く壮絶な叙事詩そのものといえよう。

    “絶体絶命”を尽く覆してきた男

    1983年。神奈川県川崎市に誕生した市川は、幼き日々から過酷な現実に直面する。7歳というまだ夢見る年齢で、父が経営していた会社の倒産を目の当たりにし、家族は町田市へと引っ越すことを余儀なくされた。小さな心に刻まれたのは、「お金が人と人との絆をいかに脆くするか」という、ひどく冷徹な現実であった。そのあまりにも苦い体験が、後の市川の決意に大きな影響を与えたことは、誰の目にも明らかである。

    中学時代、市川はサッカークラブのキャプテンとして仲間たちを引っ張り、強靭なリーダーシップを育んだ。そして、八王子工業の電気科へ進学しながらも、音楽に対する情熱を捨てることなく、ESPミュージカルアカデミーで創造の炎を燃やす。だが、運命の分岐点は、父の会社に入社した後に訪れる。父と己との間に横たわる深い溝に耐えかねた市川にやがて「どうせやるなら、俺がトップに立つ」という覚悟が胸に芽生える。2008年、市川は自らの信念を形にするべく、市川電設を設立するのだった。

    創業の直後、世界は激動の嵐に襲われた。設立わずか三カ月後、世界経済を大きく揺るがすリーマンショックという未曾有の経済危機の影響により、主要な取引先が次々と倒産。預金残高はわずか4万円、雪だるま式に膨れ上がる未回収金はやがて数百万にのぼり、まるで暗闇の中に突き放されたかのような絶望の状況に陥った。しかし、市川はそこで決して沈むことはなかった。彼の背中を押す存在があった。妻の深い愛情、仲間たちの情熱…それらが、市川の己の内に秘めた「やればできる」という信念を再び呼び起こす。毎朝6時に起き、深夜2時まで働き続ける。その日々は、まさに無我夢中の連続であった。現場に出ては見積もりを取り、顧客と向き合い、全ての業務を自らの手でこなす。市川の背中には、必ず「できません」とは言わないという、揺るぎない信念が宿っていた。その姿勢が次第に周囲に伝播し、困難な中でも「助けを求める人」に手を差し伸べる優しさが、多くの人々の心を動かすこととなった。

    ひょんな縁が運命を変える。初めて借りた事務所の大家は、市川の苦境に心を痛め、狭いオフィスから新たな物件への移転を提案し、家賃を一時的に安くするという支援を惜しまなかった。また、自社ビルの購入に際しては、オーナーが市川の真摯な人柄に賭け、市場価格よりも低い条件で売却を持ちかけた。こうした人との縁を大切にする姿勢が、次第に企業の運命を好転させ、数々のM&Aによる事業拡大や、業務の仕組み化、人材育成の強化といった戦略が現実のものとなっていった。

    毎日120%か、否か。

    市川は常々、若者たちに問いかける。「君は120%の力で動いているか?」と。多くの人々が60〜70%の力で日々を過ごす中、そこにさらに50%の情熱と努力を加えれば、世界は確実に変わる…その確信が、彼の言葉の奥底に流れている。実際、市川自身はその生き様で、挑戦することの意味を体現してきた。だからこそ、若者たちに対して、恐れずに自らの限界に挑むこと、そして未知なる可能性に賭ける勇気を訴え続けるのである。成功への道は決して平坦ではない。数々の試練と挫折が待ち受けている。しかし、市川は常に前を向き、失敗を恐れずに挑戦し続ける。その姿勢は、社員一人ひとりに強い影響を与え、全員が一丸となって未来へと突き進む原動力となっている。彼の熱いメッセージは、時代の荒波の中で揺るがぬ灯火として、多くの人々に希望と勇気を与えている。

    古代中国の思想家・荘子は、『逍遥遊』の中で「無用の用」という言葉を残している。一見、役に立たないものが実は最も価値ある資源であるという、逆説的な真理だ。市川の経営哲学もまた、効率や利益だけを追求するのではなく、人との縁や経験という、目には見えない宝物を重んじるものだ。時に遠回りに見える選択こそが、結果的に最も確かな道となる。それが、市川がこれまでの歩みの中で実感し、証明してきた真実である。「会社の成長というのはひとりひとりの成長そのものだと、まさに思います。」と、市川は静かに語る。その瞳は、単なる数字の羅列を超えた、未来への深い洞察と情熱に満ちている。経営者としての彼は、ただ利益を追求するのではなく、社員や取引先、そして関わるすべての人々とともに、幸せな未来を築くための礎を今も打ち続けている。

    やればできる

    市川電設の掲げる目標は、単なる年商100億円という数字に留まらない。それは、社会に貢献し、人々の可能性を広げ、明るい未来を創造するための大きな通過点に過ぎない。市川自身が口にする「挑戦は終わらない。だからこそ面白いんです。」という言葉は、ただのスローガンではなく、彼の生きざまと経営の根幹をなす哲学そのものだ。

    相模原の静かな大地から世界へと飛び立つ市川電設。その歩みは、幾多の困難を乗り越え、人と人との縁によって支えられ、そして何よりも「やればできる」という確固たる信念によって照らされている。市川雄士という男は、今日もまた、未来への扉を自らの行動で開き続け、挑戦を続ける。その熱き思いは、時代の荒波の中で輝く、確かな光となって、我々すべてに新たな勇気を与えている。

  • 有限会社マサミ製作所 堀内正明

    有限会社マサミ製作所 堀内正明

    硬い金属にぬくもりを吹き込む会社

    綾瀬という地名には、どこか優美な響きがある。実際、神奈川県綾瀬市は相模のなだらかな丘陵地帯に広がり、その名の通り緑や清流を感じさせる静かな場所である。だが意外なことに、市内には鉄道の駅がひとつもない。交通至便な首都圏のなかでは珍しい街だろう。しかし逆に言うなれば駅がないからこそ、綾瀬は独自の街並みを育んできた。自家用車やバスが主要な移動手段となり、人々の暮らしはどこかゆったりしている。かつて農村地帯だった頃の名残りか、広々とした畑や公園が点在し、開放感ある風景が印象的だ。

    あまりにも硬く冷たいはずの金属板が、人の手にかかると柔らかに曲線を描く。その妙を可能にするのが板金加工という技術だ。工場内に響く甲高い工具の音色や、精巧な機械のリズミカルな動きの向こうには、職人たちの息遣いが感じられる。板金加工は、金属の特性を読み取り、切る、折る、曲げる、叩くことで求める形を生み出す。自動車の滑らかなボディや精密機器の複雑な部品、家庭用品に至るまで、暮らしの隅々で私たちはその恩恵にあずかっている。

    マサミ製作所。その社名を初めて聞いた者は、町工場の響きを感じるかもしれないが、そこに秘められた技術と精神は、むしろ芸術家のそれに近い。神奈川県綾瀬市を拠点とする有限会社マサミ製作所は、1985年に創業された精密板金加工の企業だ。主な事業内容は金属加工であり、レーザー加工、プレス、溶接など高度な技術を駆使して産業車両の部品を製造している。堀内正明という名の、実直な代表取締役が率いている。彼は技術者であり経営者であると同時に、何よりも人との繋がりを重んじる実践者だ。

    逆境こそ糧

    堀内が金属加工の道に足を踏み入れたのは15歳のときだった。高校受験に失敗し、父親が創業した会社の知り合いの工場で働き始めた。昼間は板金加工の技術を身につけ、夜はウェイターとして別の世界も経験した。その二足の草鞋は、堀内に人間の複雑さや社会の本質を鋭く教えた。働きながら遊びも覚え、時には道を外しかけることもあったが、その経験すらも彼の人間的な奥行きを深めた。

    20代の初めにバブル崩壊という激しい経済危機を体験した。勤めていた工場がリストラを行い、自分の居場所を失った彼は、否応なく家業に戻らざるを得なくなった。しかし、堀内はむしろその逆境を糧とした。僅か数名だった家業を引き継ぎ、県主催の商談会に積極的に参加するなど新規開拓に奔走。その結果、今や月間1000点を超える製品を製造するまでに成長した。

    仕事は具体化された愛

    マサミ製作所が他の町工場と異なるのは、堀内が強調する「ありがとう」という精神だ。会社内で工程が移る際にも、部品を渡す側と受け取る側の間に自然と感謝が流れる仕組みを作り上げている。また、取引先や外注業者との関係でも、堀内は常に感謝の気持ちを伝える。彼が言うには「仕事は人がするもの。だから人を大事にしなければ、良い仕事はできない」のだそうだ。これは単なる理想論ではなく、堀内が長年の経験から体得した哲学であり、現実的な経営手法でもある。

    レバノン出身の詩人カリール・ジブランの書いた『預言者』には「仕事とは目に見える形にした愛である」という言葉がある。仕事を単なる労働ではなく、愛の具現化と捉えるジブランの視点は、堀内が日々実践していることと驚くほど重なっている。堀内の仕事に対する姿勢は、まさにこの愛の表現だ。製品一つひとつに職人の技術と情熱が込められ、結果として顧客からも高い評価を得ている。「ありがとう」は決して難しい言葉ではないが、その一言が人を動かし、仕事を円滑にし、会社を成長させるのだと、堀内は語る。

    重ね続ける感謝の姿勢

    マサミ製作所は、これからの社会変化にも対応する覚悟を決めている。自動化と人の技術の調和を目指し、堀内は設備投資と人材育成の両輪を回す。彼は未来を担う若者に対して「まずはやってみること」「自分に合った道を見極めること」を強く説く。人生の先輩として、若者が自分の可能性を発見し、仕事を通じて成長する手助けを惜しまない。

    そして堀内が望むのは、大規模な拡大ではない。顧客が真に求めるものを丁寧に作り続けること、その積み重ねが自然と会社の未来を形作ると考えている。堀内の姿勢に共感し、共に歩もうとする人間は自然と集まってくる。それは彼が常に示す「感謝」という見えない力によって引き寄せられたものだろう。

    かつて、江戸の職人たちは手作業で金属を丹念に仕上げ、美しい装飾品や生活道具をつくったという。現代では機械化が進み、生産効率も向上したが、微細な調整や繊細な仕上げは、今なお人間の感覚に頼る部分が多い。金属を自在に操るその技術は、AIやロボット全盛の時代でも、決して機械任せにはできない「手の知性」の領域である。

    熟練した職人の手さばきは、ある種の芸術性を帯びる。無機質な素材に生命を吹き込み、人の営みに寄り添う「かたち」を作り出す技。そこには、人間らしい工夫と経験に基づく判断がある。単なる産業技術を超えて、文化とも呼べる厚みが潜んでいる。板金加工を通じて、私たちは改めて気づかされる。技術とは人の心の映し鏡であり、愛というぬくもりを宿して初めて完成を見るのだ、と。

  • 株式会社Vision 平山智裕

    株式会社Vision 平山智裕

    淵野辺からつくりだす本質的価値

    相模原市、淵野辺という土地には、静かでありながら確かな熱を孕んだ空気が流れている。巨大都市・東京の喧騒から一歩外れたその地は、意志ある者が自らの力で価値を生み出し、独自の道を切り開く場でもある。成功という言葉は、ことビジネスの世界で安易に使われがちだ。しかし、本当に持続的な価値を生み出す企業は、単純な拡大路線に頼らない。

    株式会社Vision、その代表を務める平山智裕は、表面的な成長ではなく、組織の内側から生まれる強さに注目し、ITを基盤に中小企業が自走できる環境づくりに挑む希有な存在である。技術者としての矜持と、経営者としての覚悟。彼が築き上げたこの企業は、単なるIT企業ではない。それは中小企業の「自走力」を引き出すための創造的基盤であり、技術と経営を結びつける知的エンジンなのだ。

    まさに淵野辺を牽引する存在として輝く平山。彼がたどってきた道のりと、その目が見据えている神奈川の未来を探る。

    中小企業が直面する「持続的成長の壁」

    平山がこの地に足をつけたのは偶然ではない。幼少期から新しい事象に対する好奇心が強く、大学卒業後は企業の内情を理解しながら問題解決を行う仕事を志向するようになった平山。岡山のIT企業に就職し、東京への転勤を命じられた彼は、そこで日本のIT業界の構造的な問題を目の当たりにする。大手企業に属していた彼は、次第に組織の硬直性に違和感を覚え始めた。意思決定の遅さ、不要な承認プロセス、顧客が本当に求めているものが届かない仕組み…平山は思った。「もっとシンプルに、もっと本質的に。ITは経営の支援者であり、組織の成長を促すもののはずだ」と。

    彼はその違和感を突破するため、2018年5月10日、自らの会社を創業する決意を固めた。中小企業には優れた製品やサービス、独自性のあるビジネスモデルがある一方、ITに関する知見や十分な人材リソースが乏しく、必要な情報システムを構築・改善するハードルが高い。市場が急激に変化する中、どのようなIT基盤を整え、いかに自社の強みを生かして持続的な成長を図るべきか。彼の目指すのは「クライアントの自走力を引き出す」ためのシステム構築であり、ITを単なる受託開発ではなく、企業の本質的な課題解決のツールとすることだった。

    Visionの特異性は、その事業の進め方にある。多くのIT企業がテンプレート化されたソリューションを提供する中、Visionは一つひとつの企業のビジネスモデルや課題を分析し、それぞれに最適化されたシステムを設計・開発する。そのプロセスには「経営そのものをデザインする」視点が組み込まれている。このように、Visionのアプローチは「作ること」では終わらない。「成長のための基盤を築くこと」にある。開発されたシステムが単なるツールとしてではなく、企業の内部から変革を促すためのものとなるよう、導入後の運用支援にも徹底して力を入れる。

    つくっただけでは終われない

    現在、Visionが展開する事業はITコンサルティング、システム開発、そして導入後のアフターサポートまで一貫したサービス提供に特徴がある。その根底にあるのは「クライアント企業が、ITを自ら運用し、改善を重ねることで、進化し続けられる仕組みを築く」というビジョンだ。

    単純なヒアリングや要件定義にとどまらず、企業のビジネスモデルや戦略、組織体制、業務プロセスを深く認識し、クライアントの現状分析を重視したITコンサルティング。基幹業務システム、顧客管理ツール、在庫・物流管理システム、そしてデータ分析基盤など社内に経験豊富なエンジニアを有し、クライアント固有の要件に合わせてオーダーメイドなソリューションを生み出し続けるシステム開発フェーズ。Visionが強みとする、導入後のアフターサポートや運用支援。

    こうした一連のプロセスを通じて、Visionはクライアント企業が「ITを使いこなし、事業戦略に生かせる組織」へと成長・進化するための伴走者として、神奈川をはじめとして全国各地で活躍の場を広げている。受託開発という言葉から想像される一過性のプロジェクトとは異なり、企業内部の成長を促す「長期的なパートナーシップ」を築く点こそが、同社の注目すべきアプローチだと平山は語る。

    「ITはツールに過ぎない。問題は、それをどう使うかです。」平山は単なる経営者ではない。彼は、企業が持続的に成長するためには「覚悟」が必要だと考えている。それは彼自身の言葉にも現れている。組織としての方向性も明確だ。ただ規模を拡大するのではなく、一人ひとりの社員を深く理解し、経営層との距離が近い組織を保つ。Visionの理想のチームは、ただの上下関係ではなく、議論が双方向に飛び交う環境だ。

    海を越えて活躍できる組織を目指して

    ビジネス環境がめまぐるしく変化する中、Visionはさらなる価値創造へと歩みを進める意志を明確にしている。これまでの実績と蓄積したノウハウは、業種や企業規模に囚われず、幅広いクライアントへ展開可能であることを示してきた。今後は、IT導入支援だけでなく、より戦略的な情報活用、そしてクライアントが自社内で高度な判断を下せるIT基盤作りを強化することで「中小企業が自立的に成長可能なエコシステム」を拡張していく考えだ。

    将来的には、国内市場にとどまらず、ミャンマーをはじめとした海外市場への展開も視野に入れている。文化的背景や市場特性が異なる海外では、より柔軟で適応力の高いIT基盤が求められる。Visionがこれまで培ってきた「組織内に根付く自走力の醸成」が、海外ビジネス展開を図る日本企業や、逆に日本進出を目指す海外企業にとって、大きな価値となる可能性を秘めている。

    Visionの未来は、ただの技術革新にとどまらない。AIやDXの進化が進む中で、企業が本当に求めるのは「技術そのもの」ではなく、「それをどう活かすか」だ。Visionは、プロジェクトマネジメントの重要性を説き、単なるプログラム開発ではなく、クライアントのビジョンそのものを支援する役割へと進化しようとしている。

    品質管理の父とも呼ばれるエドワード・デミングは「品質とは継続的な改善のプロセスであり、それを可能にする組織文化こそが重要である」と説いた。Visionのアプローチはまさにそれであり、システムを作ること自体が目的ではなく、「改善のサイクルを組織に根付かせること」にある。

    「作ったら終わりではありません。そこからが始まりです。」この理念こそが、Visionの本質であり、平山智裕という男が描く未来への指針なのだ。彼の視線の先には、ただの企業成長ではなく、日本の中小企業が自らの力で未来を切り開いていく姿が映っている。

    必要なのは、技術でも資本でもない。「覚悟」なのだ。

  • 株式会社横浜セイビ 川口大治

    株式会社横浜セイビ 川口大治

    最強の「縁の下の力持ち」

    朝の街を歩いていると、建物の入り口で静かに掃除をしている人の姿に出会うことがある。普段はあまり意識されないが、その仕事が日常の快適さを支えていることは間違いない。掃除とは、生活の風景に溶け込みながらも、決して存在感を主張しない、まさに「縁の下の力持ち」のような営みだ。

    横浜セイビの代表取締役、川口大治は、父親が1981年に創業した同社を継承した。横浜セイビはもともとワックスや掃除道具といった環境用品資材の販売からスタートしたが、やがて顧客からの要望に応じてビルのメンテナンス業務にも進出。その後2012年には、時代のニーズを敏感に察知して家事代行サービス「コピエ」を立ち上げ、事業領域を着実に広げている。

    横浜市からは「横浜型地域貢献企業」認定で最上位の評価を獲得し、定期的な更新認定も継続している。また、ISO9001や倫理17000認定企業(認定番号361)、さらには神奈川県の「SDGsパートナー」、横浜市の「Y-SDGs」第1回認証事業者としても選定されている。こうした外部評価は、企業の品質と信頼性を客観的に裏付けている。

    赤字の壁を乗り越えて

    川口は2010年、会社設立30周年を目前に入社した。大学卒業後、ベンチャー企業で猛烈な労働環境を自ら選び、朝8時から深夜近くまで働く日々を7年間も送った。経営や海外市場に対する興味から、若手女性起業家が率いる新興企業を選んだ彼は、20代を全力疾走で駆け抜け、睡眠時間が4時間半という過酷な日々の中で自身の能力を研ぎ澄ました。彼が経営者としての道を歩む決意を固めるまでの軌跡は、単なる後継者という枠を超えた熱量に満ちている。

    父親の川口会長の存在もまた、川口を象徴する重要な要素である。創業間もない頃、過労から肝臓を患い「明日死んでもおかしくない」とまで宣告されながらも、コーヒーを毎日10杯以上飲み、自己管理を徹底して奇跡的に回復したという強烈な逸話を持つ父の背中を見て育った川口。幼少期に経営者として懸命に働く父を目にし、経営という道への関心を持ち始める一方で、父親の病床での姿に強烈な印象を抱き、「自分が引き継ぐしかない」という使命感を心に宿していく。

    川口が入社後に挑んだ最大のプロジェクトは2012年に開始した家事代行サービス「コピエ」だ。BtoBのビルメンテナンスを主軸としていた横浜セイビにおいて、BtoCの新たな領域を切り開くことは、社内外においても新たな挑戦だった。そこで当時、関西の先進企業である「クラッシー」を訪れ、その経営哲学を直に学び、さらには自らも現場に入りサービスの本質を掴もうと奮闘した。川口自身が結婚し、家庭を持つことで、自らの生活実感から顧客ニーズを深く理解し、事業展開を肌感覚で掴んだというエピソードは、彼の経営スタイルを象徴している。

    しかし「コピエ」の展開は容易な道のりではなかった。1回の利用がわずか1万円程度という低単価のサービスは、それまでのビルメンテナンスでの年間数千万円規模の契約とは全く異なる。事業開始から数年間は現実の厳しさに直面したが、サービスを利用した顧客の満足度を何よりも重視し、品質向上と信頼獲得に徹底的に取り組むことで徐々に利用者を増やし、継続的な顧客関係を築くことに成功している。

    満足したお客様こそがベストセールスマン

    どれだけ技術が進歩しても、人の手による丁寧な作業や細やかな配慮を完全に置き換えることは難しい。清掃業界は今、技術革新と人間の温もり、その両方を巧みに融合させながら新たな価値を模索している。これからの清掃業界が社会の中で果たすべき役割は、ますます重要性を増していく。

    現在の横浜セイビの最大の強みはまさにその「人」にある。川口は、人と人との関係性を深く理解し、それが企業成長の核であることを明確に意識している。会社のロゴにも人を中心に置き、テクノロジーが進化する中でも人間の温もりや信頼こそが最も重要だという信念を表現している。これにより、商業施設や病院をはじめとする多様な施設の管理において、数十年に及ぶ継続契約を実現し、圧倒的な信頼を獲得しているのだ。

    川口の仕事へのこだわりは徹底している。「満足したお客様こそがベストセールスマンである」という考えのもと、顧客一人ひとりに向き合い、その生活に溶け込むサービスを提供している。従業員に対しても主体性を尊重し、それぞれが最大限の能力を発揮できる環境作りに注力し、企業としての持続可能性を追求している。

    これからも現場第一で

    哲学者ジョン・デューイは経験主義教育を提唱し、抽象的な知識よりも、具体的な経験を通じた学びを重要視した。彼は教育現場において、実際の経験を通じて得た知識こそが人間の成長を促し、社会を豊かにすると考えた。

    川口は経営者として机上の理論にとどまることなく、自ら積極的に現場に出向き、サービスの最前線でスタッフや顧客と交流し、その経験を通じて事業の本質を捉えようとしている。こうした姿勢は、ジョン・デューイの経験主義教育の理念と非常に近く、川口が社員にも現場経験の大切さを常に説いていることからも明確に見て取れる。

    清掃業界は単なる「清掃」という枠を超え、生活支援産業として拡大してきた。特に家事代行業界は共働き世帯の増加や高齢化の進展に伴い、年々市場規模が拡大。感染症や衛生意識の高まりを受け、消毒・除菌サービスも社会的なニーズが急増している。横浜セイビはこうした時代のニーズを的確にとらえ、社会的課題を解決する事業としてさらに価値を高めようとしている。川口代表は、これから社会に出る若者に対して、自分が納得できる道を選び、挑戦と覚悟を持って進んでほしいと語りかけている。彼自身の歩んだ道のりがまさにその体現であると言える。

    川口大治という男の歩みには、常に覚悟があった。父の築いた土台をさらに高め、自らの手で新たな価値を生み出そうとする強い意志が、彼の言葉の端々から感じ取れる。横浜セイビが地域社会に愛され続ける理由は、こうした彼の姿勢にあるのだろう。彼の熱い情熱とひたむきさが、会社の発展とともに、この先も多くの人々の人生に寄り添い続けることだろう。

     

    家事代行サービス「コピエ」公式:https://copier.jp/

  • ジスクソフト株式会社 冨澤慶二郎

    ジスクソフト株式会社 冨澤慶二郎

    武蔵小杉から聞こえる歯車の音

    かつての武蔵小杉には、工場の排気と川沿いの土埃が入り混じった、独特の息苦しさがあった。田園地帯から一足飛びに工業地帯へ変貌したその姿は、人々に「ここから東京の端っこまではあっという間だ」と錯覚させるほどの勢いに満ちていた。東急東横線がつなぐ都心への近さは、開発の波を次々と呼び込み、やがて“タワマンの街”としての新しい顔をかたちづくる。ひと昔前なら想像もできなかった、空を突き破るような高層ビル群が、今や武蔵小杉の風景を支配しているのだ。

    だけど、その足元には昔ながらの市場が残り、老舗の和菓子店がゆるやかに時を刻んでいる。休日の昼下がりには、タワマンから降りてきた家族連れが細い路地に集まり、昔ながらの商店街をぶらつく光景も珍しくない。鉄とコンクリートのモニュメントがそびえ立つ一方で、あたたかな人間の営みがまだそこかしこに転がっている。いわばここは、高度経済成長から令和の最先端までを詰めこんだ、都市の“縮図”のような場所だ。

    彼の歩みを追いかけていると、まるで歯車が複雑に噛み合いながら時を刻んでいく精巧な機械のようだと感じる。創業から半世紀を超えた歴史を持ち、神奈川・武蔵小杉という都市の熱気と混在を背景に成長を続けてきたジスクソフト株式会社。ここで4代目の代表取締役社長を務めるのが冨澤慶二郎である。ATMの制御プログラムからロボティクスやAIソリューション、そして企業の課題解決に至るまで――ソフトウェアの企画から開発・運用保守までを一貫して行う同社の歩みは、静かながらも強い信念を感じさせる。そしてその信念の中心にあるのが、「仕事を楽しみ、人生を楽しむ」という言葉だ。

    地に足をつけた事業を

    創業当初のジスクソフトは、まさに日本の情報サービス業が産声をあげた頃に生まれ、やがてATMの基幹制御システムや業務アプリケーションの開発で名を馳せた。その後、バブル期に複数の分社・合併を繰り返しながらも、最終的には現会長が各会社を統合し、一つの形へとまとめあげて現在に至る。急成長と激しい浮き沈みを経験し、「地に足をつけた堅実な事業運営こそ、組織を長く存続させる要だ」という経営方針が社内に浸透したのは、この波乱の歴史の賜物ともいえる。

    そんなジスクソフトを牽引する冨澤慶二郎は、もともとは“社長の息子”という立場でありながら、「親の後を継ぐつもりはまったくなかった」と振り返る。大学卒業後は別の企業で営業職についたものの、時代の流れと企業の経営難が重なり、職を見直す機会に恵まれた。そこで初めて「10年後もモノづくりの現場に携わっていたい」と強く感じ、ジスクソフトに中途入社を果たしたのだ。それは、学生時代に友人の音楽イベントを手伝い、告知フライヤーをデザインした経験に端を発する。「人と対話しながらモノを作ること」が、ひたすらに楽しかった――あの熱量が、彼を突き動かしたのである。

    入社してからは、システム開発部門でソフトウェアづくりの基礎と面白さを徹底的に叩き込まれた。複雑なプログラムでも粘り強くデバッグし、試行錯誤を重ねた先に待つ“ものが動く”瞬間。まるで自分が機械に命を吹き込んでいるかのような感覚だったと彼は語る。一方で、技術開発に没頭するほど、「いつか自分の力で会社を変えられる立場になれたら」という想いが密かに膨らんでいったという。しかし当時の父親、すなわち先々代の社長は「血縁にこだわらない」というスタンス。後継者を息子に指名するつもりはなかった。ところがビジネスの拡大や株式の継承など、現実的な問題と対峙したときに、その役割を担い得る人物として冨澤の名が挙がった。もとより社への愛着を深めていた彼は、そのオファーを受け入れた。

    もっとも、それは“生まれながらの後継者”が歩む王道ではなく、むしろ荒削りな道だった。現場に深く根差していたがゆえに、新卒採用や間接部門の仕事に携わるときは、まるで異文化に飛び込むような衝撃があったという。けれど、それこそが会社全体を見渡す貴重なステップになった。やがて2019年に代表取締役副社長となり、2023年、正式に4代目の代表取締役社長へ就任。今となっては「社長になるつもりはなかった」という過去の言葉が嘘のようだが、彼の根底には常に「新しいサービスを生み出してみたい」という情熱があった。それが火を噴き、社長就任のタイミングで、一気に社内改革へと向かうことになる。

    強烈なエピソードとして、彼自身が失敗を招いたという“文化の違い”の話がある。同じシステム開発でも、あるクライアントは「夜を徹してでも徹底的に仕上げてほしい」というタイプ、別のクライアントは「定時までに進捗を明示してほしい」というタイプ。要するに、相手ごとに異なる考え方を掴むことができず、慎重なコミュニケーションを怠ってしまったことで発注が途絶えた経験だ。たとえ技術力があっても、それをどう相手に届け、どんな価値を生み出すかの視点を欠けば仕事は続かない。その苦い体験が、今では「困り事を解消するサービスを提供する」という会社の新たな方針にも活かされている。

    発想も磨く

    ジスクソフトの強みは、ハードウェアに近い制御プログラムから、人々の生活を豊かにするアプリケーションまでを一貫して手がけられる点にある。もとは大手電機メーカー向けに培ってきた技術力と実績。それを武器に、現在はモビリティやロボティクス、AIソリューションの領域、さらに地元企業の困りごとを解消する共同研究・共同開発へとフィールドを広げている。冨澤は「まずは目の前の企業や業界の課題を解決し、それが社会全体の課題解決につながる流れを目指したい」と語る。起こり得る多様なニーズに柔軟に応えられる開発力、そして必要に応じて運用や保守までも担う総合力。この掛け合わせこそが、ジスクソフトが歩む“これから”を形作っている。

    さらに彼がこだわるのは、やはり「技術と発想を磨く」という姿勢だ。技術とは手を動かし具体的に形にする力であり、発想とはその技術をどこに向けるかを決める創造力。どんなニーズがあって、どんな制限があるのか。そこを突破する知恵こそがソフトウェア企業の真髄なのだと言わんばかりだ。そして何より、この試行錯誤の過程そのものを、社員にも「楽しんでほしい」と願っている。苦労が絶えない現場ほど、仲間と協力して高い目標を越えたときの達成感は大きい。仕事の苦しさと楽しさは同時に存在するからこそ、人は成長できる。それが彼の考える「仕事を楽しみ、人生を楽しむ」の本質なのだ。

    組織で完成させる

    江戸後期から明治期にかけて活躍した“からくり儀右衛門”と呼ばれた天才発明家・田中久重は、複雑な歯車を組み合わせ精密なからくり人形や時計、そして蒸気機関や照明器具などを次々と発明し、「技術の粋」を人々に披露した。どんなに時代が変わろうとも、彼の根底には「モノをより便利かつ面白い存在にする」という探究心があり、その延長として、後に東芝のルーツにもなる工場を興したとされる。現代の視点で見れば、ソフトウェアという見えない仕組みを磨き込む冨澤と、歯車の一つひとつに魂を吹き込む田中久重の姿は、形は違えど類似点が多いように思う。

    「儲けるよりもまずは会社を潰さないこと。長く続ける中で、自分たちの柱となる新たな技術やサービスを育てたいです。」そう語る冨澤が今、思い描く未来は、単にシステムを作るだけの企業ではない。技術者や管理部門が互いに刺激し合い、全員が“からくりの歯車”となって、大きな仕掛けを完成させる、そんな組織像を描いているのだろう。彼にとって田中久重のような発明家は、一つの理想の姿かもしれない。「モノを創り出す喜び」と「世の中を便利にする責任感」を両立させる。その先にあるのは、まさに「あの会社があるからこそ、社会がより便利になった」と評価される企業イメージなのだ。

    最後に若い世代へのメッセージとして、冨澤は言う。「小さい頃に感じた不満や、“こういうふうに変えたい”という想いを大事にしてほしい。そして技術を学んでほしい。実践の場では、必ずと言っていいほど制限や苦労がある。しかし、それこそが創意工夫を生む種になる。」もちろん、AIやクラウドが普及し、ソフトウェアの概念も変わりつつある現代において、すべてが簡単に実現できるわけではない。それでも、「意志あるところに道あり」の信条を曲げなければ、いつか道が開けるはずだ。

    きっと、この物語はまだ始まったばかりだ。大きなものをつくるためには、無数の歯車が噛み合い、絶妙なバランスを保たねばならない。ジスクソフトという機械仕掛けの未来図は、彼の意志と社員の発想が一点に結集したとき、よりダイナミックに動き出すに違いない。彼の“次の歯車”はいったいどんな夢を刻むのだろうか。誰もが期待を抱きながら、その行方を見守っている。

  • 有限会社石塚商事運輸 石塚貴光

    有限会社石塚商事運輸 石塚貴光

    城下町に漂う維新の匂い

    小田原の風は、湿り気を帯びている。潮の香りと、どこか歴史の重みを孕んだ空気。かつての城下町は、物流の要衝となり、トラックが駆け巡る。その荷台には、人々の生活を支える荷物が積まれ、同時に、走る者たちの人生も乗せられている。

    1973年、有限会社石塚商事運輸は生まれた。当時わずか1社との取引からスタートした運送会社は、今では300社以上の取引先を抱えるまでに成長している。その軌跡をたどると、一人の男の姿が浮かび上がる。石塚貴光。2015年に父の後を継ぎ、二代目社長として会社を引き継いだ男である。

    小田原は風に抗う術を知っている。歴史に縛られながらも、新しいものをつねに取り込み、変わることを恐れない。彼もまた、運送業という伝統の中に生まれながら、それを単なる継承ではなく、進化の場と捉えた。

    物流業界のDX革命児

    彼の生き方は、まさに「現場主義」と「進化」の融合だ。父の背中を見て育ち、学生時代は成績よりも外で遊ぶことに夢中だった少年は、やがてトラックに乗るようになり、物流の世界に身を投じた。しかし、ただの運送屋で終わるつもりはなかった。時代は変わる。ドライバーの労働環境も、運送業の効率化も。彼はその変化を直感し、従来の運送業のやり方を抜本的に見直した。

    スマートフォンを駆使し、GPSや航空写真を活用した最適ルート設計を導入。ドライバーが初めての納品先に行く際の不安をなくすため、社内でデジタルデータを共有する仕組みを作った。紙の地図に頼る時代は終わった。すべての情報をクラウド上で管理し、各車両の位置や状況をリアルタイムで把握できる体制を整えた。このシステムによって、お問い合わせから3分以内に可否を判断することが可能になった。迅速な対応力、それが彼の武器だ。

    現場で不安を抱えるドライバーが、次の配送先で悩む必要はない。彼は、それを徹底的に排除しようとした。だが、デジタル化という言葉に惑わされてはいけない。石塚の本質は、デジタルではない。むしろ、彼は恐ろしいほど「人間的」なのだ。ドライバーの不安を消す。運送の精度を上げる。社員が仕事に誇りを持てるようにする。すべての試みは、根本的な「人間の感覚」に根ざしている。

    請求書発行すら知らなかった男

    現場の声を聞くことを忘れない石塚は、ドライバーが安心して働ける環境を作るため、社内の雰囲気をアットホームにし、問題があればすぐに話し合う文化を築いた。決して甘やかすわけではない。「仕事が回るように楽しくやろう。」これは彼が社員に伝え続けているメッセージだ。

    この挑戦の精神は、彼の人生そのものでもある。社長になった当初、彼は経営のことを何も知らなかった。請求書の発行方法さえ、全くもってわからなかったという。しかし、彼はじっとしていなかった。自ら経営セミナーに飛び込み、学び、経営者としての視野を広げた。そして、ある日Facebookで偶然再会した旧友との出会いが、彼の人生をまた大きく変えることになった。その友人は施術家として活躍しており、彼は初めての施術で身体が軽くなるのを実感した。そこからまた新たな縁が生まれ、人脈が広がっていった。「動けば縁が広がってゆく」。それを身をもって体験し、経営にも応用していった。

    石塚の成長の歩みは止まらない。彼は小田原だけでなく、厚木にも拠点を作る計画を進めている。「産業が集まる場所に物流の拠点を作る」。それが彼の次なる一手だ。無駄な労働時間を削減し、より効率的に業務を回すための布石である。

    止まらない試行錯誤

    オニツカタイガーを立ち上げた鬼塚喜八郎。彼もまた、現場を知る職人だった。日本人の足に合うシューズを作り続け、徹底した改良を重ねた鬼塚のその執念は「より良いものを作る」という紛うことなき純粋な情熱から来ているといっても過言ではない。戦後、日本のスポーツシューズ市場を切り開いた彼もまた、現場を知り、改良を重ね、選手のために最適なシューズを作ることに心血を注いだ人間だ。石塚も同じだ。ドライバーが安心して働ける環境を作り、より効率的な物流を実現するために、試行錯誤を繰り返している。

    鬼塚が「日本人の足に合う靴」を追求し続けたように、石塚は「ドライバーが最高のパフォーマンスを発揮できる環境」を追求する。そのために、デジタル技術を導入し、働きやすさと効率を両立させる仕組みを作った。その姿勢は、運送業界の未来を切り拓くものだ。

    石塚は語る。もし、何かを始めたいなら、迷わず動くべきだ。最初からすべてを知っている必要はない。経験し、学び、挑戦することで道は必ず開ける。

    物流は、社会の血管だ。だが、血管は時に詰まり、循環が滞る。無駄が多すぎる。慣習が強すぎる。変化を拒む者が多すぎる。その中で、石塚のような存在は、血液を押し流すポンプのようなものだ。現状維持は破滅と同義だと知りながら、彼は新しい道を探し続ける。有限会社石塚商事運輸。そこには、ただの運送会社ではなく、未来を見据え、進化し続ける男の物語がある。

  • 有限会社みどりや 吉永裕行

    有限会社みどりや 吉永裕行

    姿なきリスクと闘う会社

    戦後、高度経済成長を牽引した京浜工業地帯の中心として、川崎は日本経済を支える大動脈の一つだった。海沿いに並ぶ製鉄所や化学プラントは、今なお重厚な存在感を放っている。しかし近年では、産業構造の変化に伴い、街の表情も徐々に変わってきた。そんな川崎市では、いま耐震化や老朽化対策など防災への取り組みも進む。特に「耐火」や「耐震」を重視した改修工事は、地道ながら欠かせない。なかでも耐火性を高める板金加工や鉄骨補強、耐震工事などは、まさに「命を守る技術」だろう。川崎市を見ると、街は人間の営みの映し鏡という表現が思い浮かぶ。

    ビルや住宅が林立する街を歩いているとき、建物の安全性を疑うことはあまりない。しかし、壁や天井の向こう側には、万一の火災から命を守るための技術が施されている。「耐火被覆工事」と呼ばれるものである。耐火被覆とは、建物の柱や梁などの構造体に耐火性の素材を吹き付け、炎や高熱から鉄骨を守ることをいう。鉄骨は意外にも熱に弱く、高温にさらされると短時間で強度を失う。ビル火災などで被害を最小限に抑えるためには、この工事が不可欠なのだ。一方で、かつて耐火被覆材には、安価で性能が優れていたためにアスベスト(石綿)が多用された。繊維状で空中を漂うこの物質は、吸い込むと肺がんや中皮腫を引き起こすことが知られている。時を経て、その危険性が明らかになると、社会は慌てて石綿の除去を進めた。しかし、一度建物に使われた石綿の処理には高度な技術と細心の注意を要する。アスベスト対策工事の現場では、作業員が特殊な防護服とマスクを身にまとい、厳重な飛散防止措置のもとで工事を進める。空気中への飛散を防ぎつつ、安全に撤去するには技術だけでなく経験も求められる。目に見えないリスクと闘う彼らの作業がなければ、安全な生活環境は保てない。

    有限会社みどりやは、その奥深い世界に真正面から飛び込み「わかる人にはわかる」領域で地道に、かつ大胆にイノベーションを続けている企業だ。建築の耐火被覆工事やアスベスト対策を中心に、内装仕上げ・解体工事などを一手に担っている。創業者であり代表取締役を務めるのは、吉永裕行。大手ゼネコンの現場でも頼りにされるほどの技術と柔軟性を持つ。その背景には、彼自身の苦労と叩き上げられた克己心が大きく映っている。

    貫き続ける粘り腰

    生まれは長崎県。異国情緒漂う港町で育った彼は、どこか開放的で新しいものを好む性格でもあったようだ。「いずれはサラリーマンではなく、自分の手で何かをやってみたい」その思いが具体的な形を帯びたのは、高校卒業後にふと始めた建築現場のアルバイトだった。重たい資材を持ち運び、埃まみれになる。けれど、自分の仕事が空間をつくり、人の暮らしを支えることにやりがいを感じた。そうしていつしか「現場で汗を流す生き方」が肌に合うようになった。

    いくつかの下積みを経て、個人経営の内装事業「吉永内装」を立ち上げたのが1996年。当時は「明日のご飯を食べるのに精一杯」で、先を深く考える余裕はなかったという。だが、この必死さこそが彼の原動力だった。家系が商売人気質ということもあり、「やるならとことん、まずは目の前の仕事に食らいつく」という態度で突き進んだ。その粘り腰は、後に会社を大きくするうえで欠かせない武器となった。

    バブル崩壊後の「失われた20年」。激しい価格競争の中で、受注単価は低迷し、従業員の生活を守るために自らの給料がほとんどなくなった時期があった。彼は、まるで荒波の中を漕ぎ続ける孤独な船頭のように、逆境と向き合った。周囲が安売りに走る中、決して譲れないのは「人を守る」という熱い思いであった。

    最大の転機は、ある大型百貨店の改修工事だった。横浜駅近く、賑わいの絶えない商業施設の改修を任された際、工事の不備から2階フロアの営業を一時停止に追い込んでしまったのだ。百貨店にとって、フロアの閉鎖は収益にもブランドイメージにも大打撃。吉永は責任を感じ、「もう二度と工事で人の生活を止めたくない」「安全かつスピーディな施工こそがプロの証だ」と強く胸に刻んだ。この反省が、後にみどりやの強みである「自動化機器の開発」につながる。某大手ゼネコンの主催するコンペでアイデアを具体化し、2年連続で金賞を受賞するほどの機械を作り上げたのだ。ここに「失敗を糧にする」精神と「より安全で効率のよい施工を追求する」という強い探究心が詰まっている。しかし吉永は、こういった数々の困難も、現場で冷静な判断とブレない芯を持って取り組む幹部社員たちの献身的な支えがなければ、まず乗り越えられなかったという。彼らには感謝しかない、と。その言葉には、たしかに熱があった。

    限界は伸ばせ

    みどりやの事業内容は幅広い。内装仕上げから解体工事はもちろん、熱絶縁工事や耐火被覆工事、アスベスト対策工事など、人命に直結する分野が中心だ。特にアスベストの除去工事は、厳格な法令遵守が求められる一方、リスク管理や専門知識、保護具の整備など、現場力が物を言う。吉永自身も「社員が安全に働けないと、お客様に安全を提供できない」と考えており、最新の技術と設備を導入することでリスクを最小化している。こうした姿勢が評価され、大手ゼネコンや大規模解体業者からの信頼は厚い。

    今やみどりやは、厳しい労働環境の中でも「現場で働くという誇り」を胸に、着実な進化を続けている。吉永は自身の経験を基に、単なる技術力の向上にとどまらず、従業員一人ひとりの成長と安全を最優先に考えた経営方針を打ち出している。建築現場という、誰もが華やかな舞台とは言えない領域においても、彼は「細部に宿る神」を信じ、現場での一瞬一瞬を丁寧に刻みながら、未来への礎を築いている。

    吉永は日々の仕事において、常に「限界値を伸ばす」という理念を掲げている。どんなに困難な状況でも「限界」とは固定されたものではなく、ひたむきな努力によっていつかは突破できるという信念。その姿勢は、若者たちにも大きな影響を与え、部下からは「現場の先輩」として尊敬される存在となっている。現場での安全管理や自動化機器の導入など、技術革新を恐れずに次々と新たな試みを実施し、結果として多くの困難を乗り越えてきた彼の生き様は、まさに「挑戦する経営者」の象徴である。

     「努力した者だけが、栄光を掴む権利がある。」彼が座右の銘として掲げるこの言葉は、あながち精神論だけではない。実際、彼は自動化されたロックウール吹付解綿機の開発や女性スタッフの登用など、具体的な行動によって結果を出してきた。女性が活躍しにくいと言われがちな建設業界で、若手の女性スタッフを積極的に採用し、役職につける。彼いわく、「社員は自分の子どもみたいなものだから、できる限り成長の機会を与えてやりたい。」上から目線ではなく、親身になって育てる。この姿勢が、みどりやが他社と一線を画す理由だろう。

    継続こそ力なり

    ヨーロッパに「雨垂れ石を穿つ」(Gutta cavat lapidem)ということわざがある。小さな一滴の雨が、何度も繰り返されることで固い岩に穴をあけるように、日々の地道な努力を積み重ね、ひとつひとつの小さな挑戦がやがて大きな変革へとつながることを信じ続ける。決して華やかで一発逆転のドラマではなく、むしろ苦労の連続の中にこそ、真の成長と成功があると、彼は語る。

    吉永がこれから目指すのは「次の世代へ事業を継承していくための土台づくり」だ。より良質な顧客を獲得し、持続的に成長していく企業を育てること。女性社員をはじめとする若いスタッフには、積極的に経験を与え、役職につけ、自分よりも優れたリーダーを育てたいという。「いずれ、若い人たちが自分を超えてくれたら、それが一番の喜び」と笑う。そこには、かつての貧しい自分を奮い立たせてくれた建設現場のやりがいが宿っているのかもしれない。

    ぼろぼろになりながらも会社を育ててきた。失敗の痛みを知りながら、そこから立ち直ってきた。社員を家族と呼び、自らの技術力を磨くために自動化装置までも開発してしまう。吉永の物語を聞いていると、地味に見える建設現場が、実は人間の可能性を試す最高の舞台に思えてくる。アスベスト除去や耐火被覆工事を安全かつ確実に行うことは、社会的インフラの一部を担う重大な使命だ。それを、社員も家族も、そして地域も一緒に笑顔になれる形で進めていく…その風景を、彼はずっと追いかけている。

     

  • 株式会社金子産商湘南 金子武史

    株式会社金子産商湘南 金子武史

    誠実に続けて50年

    湘南…その響きだけで、人々はときめきを胸に抱く。古都鎌倉からつながる歴史の軸が確かにあり、同時に若者たちが波と戯れるビーチカルチャーが根付いている。江の島や茅ヶ崎の海辺では色鮮やかな夕陽が水平線へ沈むさまを眺められるし、歴史的には源頼朝も足繁く通った地として知られる。文化と自然が奇跡的に融合し、大都市圏へのアクセスすら良好。まさに湘南は日本の“いいとこ取り”を凝縮したような場所だ。ここに根ざして、給排水衛生設備・換気空調設備の設計から施工まで手がける、株式会社金子産商湘南がある。

    創業は1977年。以来、およそ半世紀にわたり神奈川県のインフラを支えてきた。ひと言で「水道屋」と呼ぶのはあまりにも惜しい。公共事業から個人宅の水道トラブル、はたまた学校・病院・商業施設まで、多様なフィールドで多くの人々の「水と空気」を守ってきたのだ。いわば“ライフラインのかかりつけ医”のような存在だと言える。

    創業者は地域への想いと職人たちへの誠実さをひたすら愚直に貫き、驚くことに創業以来ずっと赤字を出すことなく事業を継続。バブル経済の絶頂と崩壊も、リーマンショックの波も、近年のコロナ禍すらも乗り越えてきた。その血と伝統を継承し、新たな舵取りを託されたのが二代目…代表取締役社長の金子氏だ。

    「愚直であれ。」

    金子は1971年に神奈川県横浜市で生まれた。湘南エリアの海が近い環境もあって、幼い頃は草野球やスポーツ観戦に興じる活発な少年だったという。そこには自由闊達な気質と、同時に“仲間や周囲を大切にする”という風土があった。中学生のときには父の現場を手伝う機会を得て、「水まわりのトラブルを解決する」仕事の尊さを目の当たりにする。住民たちの困り顔が、父の作業のあとには安堵と笑顔に変わっていく。その姿を見た少年は、ただの商売ではない、地域のライフラインを担う責任の重さとやりがいに、強烈なインパクトを受けた。

    高校、専門学校を経て社会に出ると、やはり父が守り続けてきた事業を伸ばす道を選んだ。決定的だったのは父の口癖とも言える言葉だった。「愚直であれ。」それは一見すると不器用に聞こえるが、“嘘偽りなく地に足をつけて歩め”という意味であった。それが金子の胸に深く刻み込まれ、彼は施工や現場管理を泥臭く経験することで、その“愚直”の中にある説得力を日々学んでいく。技術面だけでなく「人間関係の大切さ」や「約束は必ず守る」という当たり前でいて難しい事柄こそ、会社の命運を左右するのだと痛感した。

    やがて2010年に専務取締役へ、そして2024年に代表取締役社長へ就任。父が築いた企業の屋台骨を支え続けながらも、経営の舵を取る立場として公共工事への比率を高めるなど、時代に応じたシフトチェンジにも取り組んできた。たとえば材料費や人件費の高騰、それに伴う利益率の低下などの問題に対しては、利益を安定させられる公共事業を中心にバランスを取る。同時に、お得意様への“ご用聞き”や緊急メンテナンス対応など、直接的に地域住民と顔を合わせる場面も大事にしている。

    古くからの“町の水道屋さん”としてのフットワークを絶やさず、一方で大規模設備の公共入札へも積極参加していく…相反するようでいて、この二面性こそが金子産商湘南の強みだ。

    重ね続ける信頼

    「笑う門には福来る」をモットーに掲げる金子のやり方は、いわゆるゴリゴリの拡大路線 とは一線を画す。むしろ会社全体が明るい雰囲気を維持するために一歩一歩着実に歩む。 ベテラン職人が高齢化し、若手不足に悩む建築・設備業界の構造的課題に対しても「人材育成こそ次の時代を作る鍵」と語る。大掛かりなアクションに飛びつくより、まずは社内に和気あいあいとした空気を根付かせ、現場に出る社員全員が“営業マン”であるという意識を徹底する。お客様とのコミュニケーションを大切にすることで評判を呼び、さらに利益が出れば雇用待遇を上げ、若者が入りやすい土壌を作っていく。「愚直」に地道な取り組みを続けることこそが、最良の近道だという確信がそこにある。

    事業内容には給排水衛生設備・換気空調設備の設計施工という核がある。具体的には新築住宅の配管設計やマンション・工場の修繕、店舗や病院の空調導入など、多岐にわたる。さらに近年は、災害時の迅速な復旧体制を整備することにも力を入れているという。

    大規模地震のリスクが高まる日本にとって、水道インフラのダメージは市民生活へ直結する。そこへ“頼れる駆けつけ役”として迅速に修繕・復旧に入れるよう、金子産商湘南の技術者たちは日々備えているのだ。地域に根ざし、共に生きる企業だからこそ得られる信頼感がある。

    仕事へのこだわりは「お客さまの不安を取り除く」ことに尽きると語る金子。急な漏水や給湯器の故障など、住まいのトラブルは人々の生活リズムを壊してしまう。そういう時こそ、アットホームな雰囲気を持つ職人とスタッフが動き、現場での説明や料金設定をクリアにし、不安を取り除いていく。この姿勢は、金子が若き日に目撃した父の背中そのものだと言えるよう。

    人と人をつなぐ柔らかな“誠意”

    日本陽明学の祖とも称される中江藤樹は「孝(こう)は愛敬の源にして、万行の本なり」と説き、親や地域への思いやりを出発点とした徳の実践を重んじた。江戸時代においては革新的とも言える思想で、人々に“全ての善い行いは相手を敬い、愛することから始まる”と説いたのだ。これが表面的な道徳論に留まらず、極めて生活密着型の学問体系だった点にこそ、中江藤樹の真骨頂がある。

    その教えはまさに金子の生き方にも重なる。地域への深い愛情が根底にあり、そこに誠実さと責任感を持って向き合う。そして、まるで家族を慮るように住民や顧客と接する。小さな依頼だろうが大きな公共工事だろうが、そこに違いはない。水と空気…人間にとって不可欠な要素を扱うからこそ、自らの仕事を疎かにしない愚直な姿勢を貫く。まさしく中江藤樹が掲げた「孝」と「愛敬」になぞらえられる、人と人をつなぐ柔らかな“誠意”が金子産商湘南の現場には息づいていると言っても過言ではない。

    建設業界ではまだまだアナログの文化が色濃いが、設計段階から3Dデータを共有するBIM技術や、クラウドを用いた現場管理など、取り入れるべき新手法は多い。彼は「ただ、一気に大きく変わるのではなく、地元のお客様との接点を大切にしながら少しずつ成長していきたい。」という。そこには、無理なく持続的に発展する姿こそが、“笑う門には福来る”を実現する最善の道だという判断があるのだ。

    そして最後に、若い世代へ向けて金子はこう語る。「最初からすべてが思い通りにならなくてもいい。むしろ、遠回りに見える一歩一歩の積み重ねこそが未来を大きくする。愚直になることを恐れないでほしい。」

    地に足をつけ、コツコツと階段を上る。派手な演出よりも本質の追求を重んじる。湘南の 風光明媚な海辺を背にしながら、金子の言葉は何よりも、その説得力がある。ゆっくりでもいいから誠実に続けていけば、やがてそれが地域を支え、社会を変えていく原動力になる…そんなメッセージが、まるで湘南の潮風のように爽やかに伝わってくるのだ。

  • 株式会社LightNix 慶野幸司

    株式会社LightNix 慶野幸司

    照明をあやつる詩人

    Mon âme vole sur le parfum, À un ciel charmant et fatal.(私の魂は香りに誘われ、青く靄(もや)のかかった二つの川のあいだにある、魅惑の島へと旅立つ。)

    象徴主義の先駆者であるフランスの詩人シャルル・ボードレール(1821-1867)。代表作『悪の華』では、美と醜、快楽と退廃が混在する世界を独自の言語感覚で描いた。都市の喧騒や退廃的な美意識を詩に落とし込み、のちの詩人や芸術家に大きな影響を与えた。この詩は彼の作品のひとつ「異国の香り(Parfum Exotique)」から採ったものである。この一文には感覚を揺さぶり、現実を歪ませ、読者の意識を変革する強烈な力がある。

    光を操る男・慶野幸司の人生もまた、詩のように劇的だった。光や香りのような非物質的な要素が空間や感情を形作るように、彼のライティングは単なる技術ではなく、感覚を揺さぶる魔術だ。映像の世界では、光は欠かせない要素の一つ。影が輪郭を作り、色彩が感情を引き立てる。光の操作こそが、映画、CM、ミュージックビデオの命脈を決定づける。株式会社LightNixの代表を務める慶野はまさにその魔術師だ。彼の手がけるライティングは、単なる技術ではない。美学であり、哲学であり、彼自身の生き様そのものといえよう。

    「ライティングによって世界観を台無しにすることもできるし、引き立てることもできる。」詩の言葉選びのように、ライティングもまた然り。慎重でありながら、大胆でなければならないのだ。

    タランティーノとの出逢い

    彼が照明の世界に足を踏み入れる前、彼の人生は全く異なる方向へ進んでいた。神奈川の高校を卒業し、慶野は野球に人生を捧げる道を選んだ。プロではないが企業チームの一員として、日々泥まみれになりながら白球を追った。しかし、週末も試合、休みらしい休みは正月だけ。周囲の友人たちが自由に遊び回る中、彼の人生は「野球一色」だった。「とにかく辛かった。もう無理だなと思ったんですよ。」プロを目指せる環境ではなかった。夢の道ではなかった。結果として、野球から離れ、営業職に就いた。だが、それも地獄だった。未回収の手形を取り立てる日々。川崎の工業地帯を回り、潰れそうな会社の社長と目を合わせる。経済のどん底で、希望が見えない社会の末端に慶野はいた。嫌というほど現実を見た。何かを変えなければならない。

    その時、彼の目に飛び込んできたのは「黒澤フィルムスタジオ」の求人広告だった。映画好きだった彼は、運命のようにその扉を叩いた。「入社したら映画監督になれるのかと思ったんですよ。でも、入ってみたら照明の仕事だった。正直、最初はまったく興味がなかったんです…笑。」しかし、彼は照明の奥深さに次第にのめり込んでいく。師匠である黒澤組伝説の照明技師・佐野氏の指導のもと、現場の厳しさと美しさを学ぶ。

    そして、運命の瞬間が訪れる。「クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』の撮影現場に行けと言われて。訳もわからず行ったら…あれは別世界だった。」1キロ近くに及ぶライティング、控え場所に並ぶ数十台の電源車、ケータリングのシェフが焼くステーキ。そしてタランティーノの視点。すべてが圧倒的だった。「このスケールが映画なのか。ハリウッドなのか、という。圧巻でした。」彼はその時、照明の可能性に目覚めた。

    その後、彼はさらに多くの映画やCM、ミュージックビデオの現場に立ち続けた。『座頭市』では北野武監督のもとで、影と光のコントラストを最大限に生かした照明演出を学んだ。さらに、数々の国内外のアーティストのミュージックビデオに携わり、照明の技術だけでなく、映像全体の世界観を創る力を身につけていった。「光の当て方ひとつで、作品の印象がまったく変わる。そこが面白いんですよ。」彼は現場を経験するたびに、自らのクリエイションに磨きをかけ、新たな挑戦に挑み続けた。

    無限の可能性

    現在、彼はCMやMV、映画、ライブのライティングを手掛けながら、自らのプロダクションLightNixを運営している。「縁あってこの仕事を始めたけど、本当に素晴らしい出会いばかりです。」過去には、若いアーティストのMVをプロデュースしたこともある慶野。その時の印象をこう語る。「今の若い人たちは、評価の仕方がわからないだけで、いいものを見ればちゃんと『これはいい』って言うんですよ。」彼は、ただ光を作るのではない。人々の感情を動かすために光を操っていくのだ。

    「照明っていうのは、画に色を塗る最後の筆なんです。」監督が描くビジョン。カメラマンが構図を決める。そして、照明がその世界に命を吹き込む。セットの中に「昼」を作り、「夜」を創造する。慶野にとって、照明はただの技術ではなかった。

    「自由なんですよ。カメラはアングルが決まる。演出も決まる。でも、照明は無限にやり方がある。」彼のライティングは、現場ごとに変化する。こうするべき、などという決まりはゼロ。自分でその可能性を生み出すこともできるし、潰すこともまたできる。すべてはその瞬間、その作品に最適な形を探し続けることだった。例えば、ある映画のシーンでは、登場人物の心情を映し出すために微細な光の揺らぎを用いる。別のCMでは、商品の印象を最大限に引き立てるため、光の色温度を微調整しながら撮影する。「抽象的にたとえると、照明はただの明るさではなく、情感を伝えるための手段。赤みがかった光は温かみを、青白い光は冷たさを、影の配置は緊張感を生む。それをコントロールするのが照明技師の役割なんです。」

    また、彼は照明の可能性を広げるために、日々新しい技術や手法を研究し続けている。LEDの進化、AIを活用したライティング、さらには自然光を巧みに取り入れたシーン設計など、従来の枠にとらわれないアプローチを模索している。「どんなに技術が進んでも、最終的に作品を決定づけるのは人間の感覚じゃないですか。照明は単なる光源ではなく、観客の心に残るものを生み出すアートなんです。」

    クリエイターとして

    「若い照明技師がよく『どうしましょうか』って聞くんですよ。正直なところそれが本当に嫌いなんです。」照明は受け身の仕事ではない。求められるのは、監督の指示を待つのではなく、自らのビジョンを提示することだ。監督やカメラマンが全体の構図を考えるように、照明もまたストーリーの重要な要素を担っている。光の角度、色温度、強弱、そのすべてが感情を作り、映像の質を決定づける。「まずは作る。そして、違うと言われたら修正すればいい。最初から答えを求めるのは全く違いますね。」

    若手技師たちに必要なのは、自らの感性と経験に基づいた判断力だ。どんなに指示を受けたとしても、それを解釈し、より良いものへと昇華させるのが職人の役割である。撮影現場では、時間そして空間の制約が常につきまとう。しかし、限られた条件の中で最良の照明を生み出せるかどうかが、プロとアマの違いを決定する。

    「照明技師は単なるオペレーターではない。映像を創るクリエイターなんです。」

    慶野は、野球から営業、工場勤務、映画の世界へと、いくつもの選択を経て今の場所に辿り着いた。「仕事は楽じゃないです。だけど、好きなら続けられます。好きな仕事を続けたいなら、見つけたいなら自分で考えて動くしかないです。受け身のままでは何も変えられない。」

    彼がこれからも求めるのは、ただの技術ではなく、まさにその瞬間にしか生まれない光にほかならない。光があるから影が生まれる。そして、影があるからこそ、光は際立つ。それは、まるで人生のように。

     

  • 株式会社鎌倉設計工房 藤本幸充

    株式会社鎌倉設計工房 藤本幸充

    温故知新を落とし込む会社

    日本の住宅は、その長い歴史の中で、驚くほど多様な姿へと形を変えてきた。古くは木と紙で構成される伝統的な民家が、自然と呼応するように息づき、四季折々の風や光を巧みに取り入れていた。現代では大量生産の波もあり、どこか画一的になりがちな住宅が町並みに並ぶ。けれども、その背後には「自然素材であれ工業化された部材であれ、住む人をどう生かし、どう包み込むか」という問いが脈々と続いているはずだ。日本の住宅の歴史は、常に自然との対話、人との共生がカギになってきた。だからこそ、まだ見ぬ大きな可能性が眠っているのではないだろうか。

    株式会社鎌倉設計工房の藤本幸充代表は、ちょうどその可能性を一心に掘り起こすような人物だ。日本の伝統的な建築文化を敬愛しつつ、現代の技術やライフスタイルを絶妙に交差させる。その発想には、単に古いものを保存しようという保守的なニュアンスはない。むしろ「生き生きとした家づくり」を目指すために歴史へと遡り、素材の声を聞き取りながら、住まいと人の未来を紡いでいるのだ。藤本の仕事は、そうした「温故知新」を具体的な設計へ落とし込むことである。

    心から面白いと思うことを

    1950年、鎌倉で生まれた。大学の商学部に進学はしたものの、当時の社会情勢は混沌としており、学生運動の嵐が吹き荒れる時代に大きな疑問を抱いたという。「本当に自分がやりたいことはなんだろう」と考え抜いた末、理系の建築学へと思い切って舵を切った。家族からは反対の声もあったが、一度決めたら諦めないのが藤本流。結局、大学を中退し建築を学び直すという遠回りをしながら、工学院大学工学部建築学科へと進む道を拓いていったのだ。

    周囲の同世代より遅れる形で学び始めた建築だったが、そこには藤本の「自分が心から面白いと思うことをやるんだ」という強い意志が横たわっていた。大学時代には歴史的建築物の保存研究にも携わり、倉敷の美観地区での調査などを通して「建物がその土地と歴史を抱えながら息づいている」ことを肌で感じ取る。その経験が、彼を古い家こそ面白いという境地へと駆り立て、やがては「生き生きとした建物をつくるにはどうすればいいか」を考える大きなきっかけとなった。

    卒業後は設計事務所に入り、時には大手建築会社の下請けとして多種多様な物件に関わる。大規模な商業施設や公共建築から、細やかな住宅リノベーションまで、実に幅広い案件をこなしながら腕を磨いた。現場では思い通りにならないことも多く、汗だくになって職人たちと言葉を交わし、ときには激論を交わす場面もあったという。そんな荒波を乗り越えた末に、「建築は図面だけでは完結しない。職人たちの手、素材の性質、施主の想い、あらゆるものを混ぜ合わせてようやく形になるんだ」という確信を得る。

    30代で独立を決断し、「鎌倉設計工房」を開設したのは1981年のこと。場所は交通の便を考慮して横浜へ移したが、最初のオフィスは思い出深い鎌倉の自宅。元々は一人で始めた小さな事務所だったが、その後はチームを増やし、設計スタッフが十数名にふくらんだ時期もあった。住宅設計はもちろん、マンションや介護施設の改修・改装など、目的に応じて柔軟に対応できる体制を整えた。そこで藤本が一貫してこだわったのは、「場所の持つ力と素材の声をしっかりと受け止める」という姿勢だ。

    価値を感じる家づくり

    「新築の家をつくるとき、まずは敷地の歴史を知るんですよ。」と藤本は語る。過去にどういう用途で使われていたのか、土地の高低差や風向き、周りの街並みはどんな成り立ちがあるのか、そうした情報を丹念に拾い上げて、初めて“その土地に相応しい家”が見えてくるという。光をどこから取り込むか、窓をどう配置すれば風が通り抜けるか。さらには、家族構成や将来の暮らし方の変化まで想定して、プランを描き出す。その過程ではもちろん「自分が好きだから」と安易に画一的プランを押しつけない。施主と何度も対話し、図面を見せ、時には急な変更にも応じつつ、最終的に完成するものが“その家らしさ”だと信じているのだ。

    中でも藤本が力を入れているのが素材選びだ。とりわけ印象的なのは「ベンガラ」の活用だろう。赤みを帯びた酸化鉄顔料であるベンガラは、日本で古くから寺社仏閣の塗装や民家の外壁などに用いられてきた歴史ある素材だが、現代ではあまり一般住宅ではなじみが薄い。しかし藤本代表は、ベンガラの色合いを木や漆、そして建物の表情に絶妙に織り交ぜることで、「家がまるで生き物のように息をしている」ような雰囲気を生む。その色彩のニュアンスは単なる赤や黒ではなく、自然素材ならではの奥行きを感じさせるから不思議だ。

    そんなこだわりは、一見すると「手間もお金もかかりそうだ」と思われがちだが、住宅メーカーに依頼する予算のある人なら、その予算で設計者にたのんで家を建てることは可能なので、設計事務所に設計を依頼することを敷居が高いと思わず、家を建てる際の選択肢に入れてほしいと藤本は言う。さらに藤本は「分離発注(=工事を工務店への一括発注ではなく、各専門職人にそれぞれ個別に発注する)を取り入れればむしろコストは抑えられる」と断言する。要は、施主と一緒にプランを練り、現場の職人直接コミュニケーションしながら、建物を作る。施主自身も塗装などの現場作業に参加することもある。結果として、工務店や大手ハウスメーカーに丸投げするより安い費用で「自分らしい家」が完成するケースも少なくない。このスタイルに共感して、なんと住宅メーカーの社員が自宅の設計を依頼してきたこともあるという。プロの目線で見ても価値を感じる家づくりを、無理なく実現してきたのが鎌倉設計工房の強みだ。

    ときに、建築家や設計事務所というと、どこか「芸術家肌」で施主の好みを無視しがちなイメージを持たれたりもする。しかし藤本は真逆と言っていいほど、相手の感性や意見を引き出すことに注力する。「自分とは違う発想で、思わぬアイデアが転がってくる瞬間がいいんです。そこから、こちらも想像力を広げられる。」と語る藤本。これは「人がどう住むか」を第一に考えた結果だろう。むしろ設計者が自分の世界に閉じこもっていては、せっかくの“暮らし”の可能性を逃してしまう。

    上を向き続ければ実現する

    吉村順三は、世界的な大建築家ほど派手な目立ち方はしないが、日本の住宅デザインに深く根を下ろし、「住まいとは、自然の中で人が安心して存在できる、小さな宇宙である」という名言を残している。大げさに言えば家ひとつにも、小宇宙のような可能性が広がっているということだ。人間がそこに身を置き、四季の移ろいを感じたり、家族と触れ合ったり、静かに一人の時間を過ごしたり。そうした営みを守り、包み込むのが家だという。吉村はそれをシンプルに、しかし深い想いで語った。

    吉村が得意としたシンプルで陰翳を感じさせる空間づくり、そして自然を取り込むことに配慮した窓のレイアウトなどは、藤本の「歴史や自然素材を活かす」姿勢とも響き合う。決して大きな表札を掲げるような自己主張ではなく、光や風、匂い、音といった要素を繊細に扱うそこに「小さな宇宙」が生まれる可能性がある。

    実際、藤本が目指すのは人が生きる場そのものを包み込む建築であり、それは日本の住宅が本来持っていた可能性を再び呼び覚ます行為でもある。彼は「古民家を葬り去るのではなく、再生することで新しい価値が宿る」と語る一方で、現代技術の利点も取り入れる。断熱や耐震など、安全性を高める工夫は必須だ。しかし、その上で“日本の伝統が培ってきた木組みの妙”や“素材そのものの呼吸”を大切にする。この折衷こそが、次世代の家にとって大切になるのではないかと力説する。

    最後に、若者へのメッセージを尋ねると、藤本は少し照れたように微笑む。「上を向いていれば必ず実現すると思うんですよね」と言う。彼自身が、大学をやめて理系に入り直すという大きな回り道を経験しながらも、建築をやりたいという想いを諦めず、結局はここまで歩んできた。もちろん波乱はあったし、順風満帆とは言えない道のりだったかもしれない。それでも、何かを強く信じ続ける姿勢こそが、人生を拓くと身をもって証明しているのだ。そして建築にも同じことが言える。「妥協せず、暮らし手の想いを形にしていけば、家は必ず生き生きとしてくるから。それを信じられるかどうかが大事なんですよね。」

    本人は「まだ道半ば」であるという。従来の住宅メーカーの画一性やコスト優先主義とは異なるアプローチで、小さな面積でも家族の夢を詰め込んだ住まいをつくる。施主がDIY的に参加して、愛着の持てる空間に仕上げる。そこで思わぬ色をまとい、呼吸する家が完成するたび、彼はまだ見ぬ次の可能性を想像しているのだろう。狭いと思っていた土地が、生き生きとした家に変わった瞬間、そこに住む人の物語が始まる。日本の住宅がまだまだ失っていない豊かなポテンシャルを、彼は確固たる情熱で引き出している。

    人が暮らすという当たり前の営みを、大切に形にしていくこと。それが日本の住宅に埋め込まれた、まだ顕在化していない宝物を呼び覚ますカギになる。鎌倉設計工房が歩んできた道は、決して派手でも巧妙でもないが、確実に数多くの家族の暮らしを支えてきた。これから藤本が描く家々は、世代を超え、土地の記憶と住まう人の声を結び合わせ「こんな風に暮らしてみたい」という素朴な願いを、見事にかなえるだろう。40年以上にわたる彼の蓄積と情熱が、それを可能にする。上を向いて歩いてきたからこそ、いま彼は自分の足場をしっかりと踏みしめ、先の未来をまっすぐ見据えているのだ。そんな藤本幸充の物語は、日本の住宅が迎える新たな可能性を、そっと照らし出している。

  • やよいだい整形外科_大山泰生

    やよいだい整形外科_大山泰生

    敬意をもって医療と向き合う男

    「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

    12世紀を代表する歌人、西行は歌集『山家集』にこう記した。何がそこにあるのか、何が真理なのかはわからない。ただ、その存在の深さと広がりに対し、ただひたすら敬意を抱き、涙がこぼれるばかりだ。人間の知識には限界がある。どれほど学び、経験を積もうとも、全てを知ることはできない。しかし、だからこそ学び続けることが重要であり、その過程こそがもっとも尊いのだ。

    医学の世界もまた、この精神と無縁ではない。治療法が進化し、診断技術が向上しようとも、すべての患者の痛みや苦しみを完全に理解することは不可能に近い。しかし、その限界を認識しながらも、常に知識を更新し、より良い医療を提供し続けること。それが医師の務めであり、学びを止めない姿勢が不可欠なのだ。

    神奈川県横浜市、やよいだい整形外科。その扉を開けると、そこには大山泰生院長がいる。病を抱え、どうすればいいのかわからずに訪れる人々に、彼は答えを示す。ときには「ここではない」と他の専門医へ託すこともある。しかしそれは、彼の「よく診て、よく考える」という根底にある哲学が一貫しているが故の、診療スタイルなのだ。

    自分の指示を待つスタッフ総勢20名

    大山泰生はもともと病院勤務医として17年間働き、数え切れないほどの手術を執刀してきた。しかし、現場に立つたびに、彼の中で何かが変わっていった。患者の命を預かるという重圧、手術の成功に賭ける緊張感、そして何よりも、人間の身体が持つ驚異的な回復力に魅せられた。経験を積むほどに「この技術をもっと追求したい」「患者にとって本当に最善の医療とは何か、考えなければならない」と強く思うようになった。それでも、病院という組織の中では、自分が本当にやりたい医療ができなくなる可能性がある。手術は確かに重要だ。しかし、すべての患者が手術を必要としているわけではない。では、それ以外の治療法を充実させることはできないのか?もっと自由に、自分が理想とする医療を追求する場所が必要なのではないか。

    彼は開業を決意した。それは、定年という概念に縛られず、自らのスタイルを貫ける道だった。2007年、やよいだい整形外科が誕生した。勤務医から突然、20人以上の従業員を抱える院長となった。当時の状況は過酷だった。「開業医の孤独は、想像以上でした。」と彼は振り返る。大学の医局に所属していた頃とは異なり、自分が唯一の医師。スタッフ全員が自分の指示を待つ。人事や経営の問題にも直面し、試行錯誤を繰り返した。「開業してすぐは、経営者としてのプレッシャーがとてつもなくすごかった。今度は経営、スタッフのマネジメント、設備の導入、そして患者の満足度すべてを一手に背負う立場になったんです。資金繰りの不安、医療機器の選定、スタッフの教育…すべてが初めての経験でしたから。逆に、だからこそやるしかないと思いました。」

    目の前の患者を救うために、最善を尽くす。その覚悟がなければ、開業などすべきではなかった。最初は手探りの連続だったが、少しずつ医院の基盤を固めることができた。そして、年月が経つにつれ、医院は地域に根付き、やよいだい整形外科は「困ったときに駆け込める場所」としての信頼を得るようになった。経営の厳しさを乗り越えるうちに、大山の医師としての視点も変わった。かつては手術の技術を磨くことだけが医療の本質だと思っていたが、今ではそれ以上に「適切な診断と治療の選択」が重要だと確信しているという。開業したことで、より多くの患者に寄り添うことができ、自分の医療観をさらに深めることができたのだ。

    元来の“適切な”医療を届けたい

    大山の理想は「整形外科のワンストップサービス」だと語る。患者が来院し、必要な診断と治療がすぐに行われる。これを実現するため、彼は自身が納得できる新しい医療機器を導入、スタッフ教育にも力を入れる。「整形外科の治療って、実は医者によって診断も治療方針もけっこう違う。だからこそ、我々がブレてしまわないように、スタッフ陣には徹底して治療方針を共有しています。」

    また、患者が不要な治療を受けないようにすることも彼の重要な役割だ。印象的なエピソードを聞かせてくれた。ある日、「腕に力が入らない」と言って来院した患者がいた。最初は整形外科の問題かと思われたが、診察を進めるうちに「脳梗塞」の可能性が浮かび上がった。すぐに脳神経外科へ紹介し、適切な治療を受けることができた。「そもそも整形外科である前に、私は一介の医師です。専門領域の診療科目の考え方で症状を捉えることは前提ですが、それでもなお、領域を超えて考えることが大事ですよね。病気の診断を“自分の専門領域に引き寄せる”のではなく、見えているものを正しく診断するのが我々の仕事の本質です。」医学の世界では、専門ごとに細分化されすぎて、時に患者が正しい診断を受けられないことがある。だからこそ、総合的に診る力がまさしく必要になる。必要ない医療は絶対に押し付けない。大山は患者にとってムダのない治療をモットーにしているのだ。

    自分の道を探し続けよ

    二浪の末に慶應義塾大学に入学し、その後、アメフトと寮生活に明け暮れた大山。勉強は最小限だったとあけすけに語るが、それでも医学部を卒業できたのは「頑張れば必ず結果がついてくる」という成功体験があったからだとも語る。「とにかくやってみることが大事。失敗するのは当たり前です。挑戦しないと何も始まりません。」

    また彼はこう語る。「若者たちには、自分の道を探し続けてほしい。どこかで止まるのではなく、挑戦を続けてほしい。医学の世界でも、ビジネスの世界でも、やるかやらないかの違いは大きいですから。」大山泰生は今日も患者と向き合い、「よく診て、よく考える」医療を実践し続けている。

  • 合同会社あかりメイト 峰平宣明

    合同会社あかりメイト 峰平宣明

    総合力が求められる専門職

    マンション管理という分野は、日本が高度成長期を駆け抜けた後に独特の進化を遂げてきた。戦後の住宅不足を解消するために建てられた集合住宅がやがて経年劣化し、人々の暮らし方も多様化する中で、「どうやってこの建物とコミュニティを維持していくのか」という新たな課題が表面化したのだ。数十世帯、時には数百世帯もの人々が同じ建物に暮らす。その上、建物や設備に関わる修繕、敷地や共用部を巡るルール決め、住民間の意見対立など、問題は多岐にわたる。そんな複雑な状況を一手に支える「マンション管理士」という国家資格が存在することを、どれだけの人が知っているだろうか。

    マンション管理士の仕事は、単なる不動産の知識や建物の管理だけにとどまらない。法務・財務・建築、そして時に人間関係の調整という“総合力”が求められる専門職だ。建物を守るだけでなく、そこに暮らす人々を支え、コミュニティ全体が円滑にまわるよう後押しする。ここには、大きな可能性が眠っている。古くからの住民もいれば、新しく引っ越してきた住民もいる。意見が合わない人同士が同じ階段や廊下を使い、時にはトラブルも生まれる。でも、その一つひとつを丁寧に拾い上げ、自治を促進させる。それこそが「マンション管理士」の役割だ。

    そんなプロフェッショナルの一人が、合同会社あかりメイトを率いる峰平宣明代表である。大阪出身、神奈川に移り住んでからはすでに30年。現在は「峰平マンション管理士事務所」としても活動し、数多くの管理組合をサポートしている。その歩みには、マンション管理士という仕事の可能性を照らす、強い意志と地道な実務経験が詰まっている。

    その判断が住民の生活に直結する

    不動産会社に勤務していた頃、そしてゼネコンの現場監督をしていた頃から、峰平は建物に関わる実務にじっくり向き合ってきた。大手マンション管理会社にてフロントマン、つまり管理組合の担当者として数多くの物件を任された経験は、その後のキャリアを決定づける。フロントマンは管理組合の理事会や総会に出席し、住民と管理会社の橋渡しを行う最前線のポジションだ。マンションには様々な住民が暮らしているため、意見が衝突する場面も少なくない。修繕積立金をどうするか、騒音問題やペット飼育ルールをどう取り扱うか…一つひとつのテーマが住民の生活や財産に直結する。だからこそ、単なる事務作業以上に、粘り強い説得や合意形成が求められるのだ。

    「最初はただひたすら大変でしたよ」と彼は笑う。管理組合の担当者になったばかりの頃は、「管理会社がやれと押しつけてきた」と住民から誤解される場面もあったし、そこに至るまでの経緯をしっかり説明していないと「いつの間にこんな工事に決まっていたの?」と不満をぶつけられることもあったという。しかし、ひとつの物件を何年にもわたって担当するうちに、住民の顔と名前、性格、そしてそれぞれの思いが少しずつ見えてくる。「誰がどんなことにこだわっていて、何を大事にしているのか」という点をつかむことで、交渉や提案はスムーズになっていく。

    それはまさに現場主義の徹底だった。書類のやりとりだけではわからない微妙なニュアンスを、実際に足を運んで住民と話すことで察知する。時には雑談まじりに、エントランスの植栽の状態を一緒に眺めるだけで「今こういうところで困っているんだよね」と住民が本音をこぼすこともある。そのひとつひとつが、後の大きな問題の芽をつむ鍵になり、あるいは管理組合としての理想像を描くヒントになったりする。「結局、人と人とのコミュニケーションなんです。」という言葉には、峰平がフロントマンとして培った経験が凝縮されている。

    やがて彼は、大手管理会社での仕事に一区切りをつけ、マンション管理士として独立。合同会社あかりメイトを立ち上げ、さらにマンション管理士事務所として本格的に活動を開始した。思い返せば、業界自体が法制度の変化や建物の老朽化問題に翻弄される中で、多くの管理組合がサポートを必要としていた。けれども、本当に現場の声を細かく拾い上げ、丁寧に伴走してくれる専門家は意外に少ないのが実情だったのだ。「管理組合の方々がご自身でネットを検索して情報収集しても、そこには抽象的な法律の話や理想論ばかりが並んでいて、何から手をつければいいかわからない」というケースは多いという。

    住民を動かす技術

    実際、峰平がこれまで対応してきた管理組合は、延べ150件にも及ぶ。そこには築年数が浅い物件もあれば、既に何十年も経って共用設備が綻びはじめた物件もある。住民の年代構成や財政状況もまるで違う。その一つひとつに対し、法律や規約のチェックだけでなく「こんな段階的な進め方なら、無理なく合意形成できますよ」といった具体案を提示していく。時には会合の場で住民に囲まれ、「そんなに費用を出せるわけないだろ」と声を荒げられることもあったそうだ。それでも一歩も退かず「では、今すぐ大きな工事は難しいとしても、まずはここだけ押さえておきましょう」と優先順位を解きほぐしていく。その粘り強さが功を奏し、トラブルが解決した後に「ありがとう」と感謝される瞬間があるからこそ、この仕事はやりがいが尽きないのだと、峰平は言う。

    一見地味に映るかもしれないマンション管理。しかし、その向こうには多種多様な人間模様があり、何十戸もの家族の暮らしがある。中には高齢化が進んでいて、理事会を担う人が少なくなっている物件もあるし、外国籍の住民が増えてコミュニケーションに苦労するケースもある。管理組合が力を発揮できず、管理会社任せになってしまえば、必要な修繕を先送りし、結果的に大幅なコストがかかってしまうこともある。だからこそ、マンション管理士の腕の見せ所は多い。建物や法制度の知識に加え、住民を巻き込み、「自分たちの住まいを自分たちで守っていこう」というモチベーションを引き出す力が求められるのだ。

    いわゆる「派手な改革」ではなく、丁寧な対話と合意形成。それこそが峰平のスタイルの根幹だ。様々な価値観をもった住民たちが暮らす集合住宅の場では、「一方的に指示を押しつける」だけでは機能しない。むしろ住民の中からリーダー的存在を見つけて、彼らが主体となって動けるように下支えする。その姿勢こそがコミュニティを豊かに育てる鍵となる。

    リーダーシップとは分け合い引き出すこと

    ここで、アメリカの女性社会活動家ミルドレッド・C・フリックを紹介したい。彼女が掲げた名言の一つに、「本物のリーダーシップとは、分け合い、引き出すこと」という言葉がある。リーダーが一方的に命令するのではなく、チームのメンバーそれぞれが持っている力を見極めて、それを引き出しながら共通のゴールへ向かう。そのためには、お互いの意見を尊重し、合意をつくり、納得して行動してもらう必要があるのだ。マンション管理でもまさに同じで、管理組合の理事長や理事会メンバーだけに負担を押しつけるのではなく、全住民がそれぞれの立場で関心を持って協力することが望まれる。ミルドレッド・C・フリックの考え方は、「住民同士が主体的に動くコミュニティづくり」という点で、峰平の仕事とも深く共鳴する。

    このような理念を口にするのは簡単だが、実際は根気がいる。説明しても理解を得られない住民がいるかもしれないし、長年の不信感から対立が根深くなっている物件もあるかもしれない。でも、そこを諦めず、一つひとつ課題をクリアするたびにコミュニティが少しずつ前進していくのを、峰平は何度も見てきた。「あんなにギスギスしていた理事会が、気づけば和やかに話し合っているんですよ」と、嬉しそうに語る。これは表向き派手なプロジェクトではないかもしれないが、そこには人々の暮らしを守り、生活を安全・快適にする“確かな手応え”がある。

    最後に、若い世代へのメッセージを尋ねると、峰平は少し照れながら、しかし真剣な眼差しで答えてくれた。「マンション管理士って、まだまだ知名度が低いんですね。でも、人々の生活と財産を支える、すごくやりがいのある仕事です。僕が言いたいのは、“自分から現場に足を運んでみよう”という姿勢が大事だということ。ネットの情報やデスクワークだけじゃわからない、リアルな悩みや想いが、そこにはあるんです。」この言葉は、決してマンション管理に限らず、さまざまな仕事や生き方にも当てはまるはずだ。教科書やSNSで流れてくる情報だけを鵜呑みにするのではなく、実際に現地に行って、人と話して、肌で感じる。その先にこそ、本当に必要な解決策が見えてくるのではないか、と。

    世の中には、派手で耳目を集めるようなビジネスが多いかもしれない。一方で、マンション管理のように縁の下の力持ちとして日々の暮らしを支える仕事がある。それは決して地味なだけではない。住民から「管理会社に任せきりではなく、私たち自身が動いてよかった」と言われた時、あるいは廊下の電気がLEDに変わり、年配の住民が「これで夜でも安心して歩ける」とほっと笑顔を見せた時そこには、確かな誇りと手触りが存在する。そして何より、そうやって築かれた合意や工夫の積み重ねが、“暮らし”というかけがえのない舞台を支えているのだ。

    「僕はまだまだこの仕事を続けますよ」と峰平は笑う。一度携わったマンションの住民たちとは、案件が終わってもゆるい繋がりが残り続けることがある。それがまた新たな依頼や相談につながる。インターホンの交換ひとつから始まったやり取りが、いつしか理事会の抜本的改革にまで及ぶこともある。そうして少しずつ管理組合の“力”が育っていくのを見守るのは、何よりも大きな喜びだと語る。

    地道な作業だが、そこには確実な充実感がある。ミルドレッド・C・フリックが掲げた「本物のリーダーシップとは、分け合い、引き出すこと」に象徴されるように、管理会社やコンサルタントが一方的に押しつけるのではなく、住民の力を引き出すことが真のゴールだ。だからこそ、峰平は決して諦めず、住民を励まし、必要な知識を惜しみなく提供していく。そのスタンスが「暮らしの専門家」としての存在感を際立たせている。

  • 株式会社光洲産業 光田興熙

    株式会社光洲産業 光田興熙

    産業廃棄物をアップデートする男

    ビジネスの本質は、金を稼ぐことでも、競争に勝つことでもない。仕事を通じて自分を表現し、他者とつながり、社会に何かを還元できるかどうか。そんなシンプルな問いに対する答えを、真っ向から探し続けている男がいる。

    神奈川県川崎市。工業地帯の喧騒と、人々の絶え間ない営みが交錯するこの街には、鉄とコンクリートの塊が生み出す無機質な風景と、人々の汗が染み込んだ現場のリアルが共存している。街を歩けば、砂を巻き上げながら行き交う大型トラック、積み上げられた無骨なコンテナ、工場から立ち上る蒸気、そして何よりも、そこに生きる人々の息遣いを確かに感じることができる。

    そんな川崎の片隅で、産業廃棄物の概念を根底から覆そうとしている男がいる。光田興熙、株式会社光洲産業の代表取締役だ。父の背中を見て育ち、一度は異なる業界を経験した後、家業を継ぐ決意をした男である。

    果たしてそれは“ゴミ”なのか?

    光田は最初から経営者だったわけではない。大学を卒業後、大手商社に就職し、世界の物流や市場経済の仕組みを学んだ。しかし時が経つにつれ、彼の中には「もっと直接的に社会に貢献できる仕事がしたい」という思いが膨らんでいく。父の経営する光洲産業に戻る決意をしたのは、その思いが限界に達したときだった。

    2016年、29歳で光洲産業に入社した光田は、当初は会社のすべてを学ぶことに徹した。350人の社員、100台のトラック、5つの工場。圧倒的な規模に圧倒されながらも、彼は現場を回り、実際に手を動かしながら経営の本質を探ろうとした。違和感があった。「廃棄物が工場に入って、廃棄物として出ていく。これって、一体何のための仕事なんだ?」彼は自問した。もちろん、産業廃棄物処理業は社会に必要な仕事だ。しかし、それだけで満足していいのか?「ゴミを処理する」のではなく、「ゴミに新たな価値を与える」仕事にしたい…その思いが彼を突き動かした。

    光田は、従来の廃棄物処理業の在り方に疑問を持ち、新たなビジネスモデルを構築することを決意した。その第一歩が、「ゴミを価値あるものに変える」試みだった。リサイクル材をただ燃料として供給するのではなく、新たな製品として市場に送り出すことを考えたのだ。試行錯誤の末、彼はプラスチック廃棄物を再資源化し、建築資材として輸出するプロジェクトを立ち上げた。2023年、台湾企業との提携が決まり、日本の廃プラスチックを原材料として再活用するスキームを確立した。これは単なるリサイクルではなく、「ゴミを価値ある商品にする」という彼の哲学を体現したプロジェクトだった。

    また、彼は石膏ボードの廃棄物を粉砕し、新たな建築資材として生まれ変わらせる事業にも挑戦した。廃棄物処理業者が建材を作る…この異端とも言える挑戦は、業界内でも驚きをもって受け止められたが、光田は一切気にしなかった。「誰かがやらなきゃいけない。でもみんなやらないなら、自分がやるだけなんです。」

    リサイクルが好きです

    光洲産業のクレドは「リサイクルが好きです。」このシンプルなフレーズは、単なるキャッチコピーではなく、企業の哲学そのものを表している。「好き」という感情は強制できるものではない。しかし、リサイクルを義務や単なる業務としてではなく、創造の場として捉えたとき、それは新たな価値を生み出す力となる。光田は「廃棄物は終わりではなく、始まり」と考え、社員一人ひとりが誇りを持ち、楽しみながら働ける環境をつくることに注力している。

    クレドには、リサイクルという行為を通じて社会を変え、未来を創造するという決意が込められている。それは、ゴミを単なる不要物と見るのではなく、新たな可能性の種と捉える思想でもある。光田は社員に対して「リサイクルを楽しめる職場こそが、真の社会貢献につながる」と繰り返し伝え、実際の事業改革を進めている。

    光洲産業が目指すのは、リサイクルを義務ではなく、企業と社員が共に成長する場として捉えることだ。このクレドが根付いたとき、産業廃棄物処理業界はもはや「処理業」ではなく、「価値創造業」へと進化するだろう。

    誰もが避けたがる仕事にこそ価値がある

    内村鑑三は「二つのJ(Jesus and Japan)」を掲げ、信仰と愛国心の両立を追求し、信念を貫きながらも日本のために尽くした。彼は国家や制度に盲従することなく、真の道義とは何かを問い続け、自らの思想を実践した。無教会主義を提唱し、既存の宗教組織に属することなく信仰を深め、独立した精神のもとで倫理と社会貢献の重要性を説いた。その生き方は、既成概念に縛られずに自らの信念を貫く者にとって、一つの指針となり続けている。

    光田もまた、「リサイクルは楽しい」と言い切る。それは単なるスローガンではなく、仕事を通じて社会を変え、社員を幸せにすることが自分の使命だという、果てしなく強い信念の表れだ。内村が既存の価値観に縛られず、自分の道を突き進んだように、光田もまた、業界の常識を打ち破る道を歩んでいる。

    産業廃棄物処理業は、一般的に「汚い仕事」と思われがちだ。しかし、彼は違う。「誰もがやりたがらない仕事に、新しい価値を見出せるかどうか。それが人生を面白くするんです。」仕事は、ただの生計の手段ではない。自分が何かを生み出し、社会に貢献できるものにすることができるかどうかが、大事なのだ。

    光田のような人間が増えれば、この国の産業はどんなものでももっと面白くなるはずだ。彼の挑戦は、廃棄物処理という枠を超え、働くことそのものの意味を再定義しようとしている。僕らは「仕方なく働く」のではなく、「働くことを楽しむ」ことができるのか? その問いを、彼の生き様から学ぶべきかもしれない。

  • マインドフルネス・アーキテクツ株式会社 岩濱サラ

    マインドフルネス・アーキテクツ株式会社 岩濱サラ

    生命建築という試み

    「生命建築」この言葉には、不思議な磁力がある。建築というのは本来、コンクリートや木材、金属といった「無機質」な素材によって形づくられる。しかしその内部に宿るべきは、人間をはじめとしたあらゆる生命だ。生命建築とは、そんな「いのち」を基盤に据え、自然と人間の調和を目指す試みである。

    歴史を振り返れば、人々は古くから風土や地形を読み、木や土の息づかいを尊重しながら住まいを育んできた。日本で言えば神社仏閣や古民家などにその面影を見出せるかもしれない。ところが大量生産・大量消費の波が押し寄せ、無機的な建造物が次々に並び始めたとき、私たちはいつのまにか「人間が自然を支配する」という錯覚に陥ってしまったのではないか。

    ではいま、再び「いのち」に光を当てる生命建築は、どのような未来図を提示してくれるのか。そこに切り込んでいるのが、マインドフルネス・アーキテクツ株式会社、代表取締役の岩濱サラという女性だ。

     彼女は「場づくり」をデザインする建築家でありながら、「生き方」をナビゲートする案内人でもある。神奈川県鎌倉市に腰を据え、「ThinkSpace鎌倉」というコワーキングスペースを拠点に、マインドフルネスを核に据えた事業を展開している。リトリート施設やメディテーション空間の設計、あるいはコミュニティの創出を通じて、人々が内省し、自分自身の存在と自然とのつながりを取り戻していく。その在り方が、彼女の言う「生命建築」の大きな可能性を形づくっているのだ。

    自然に生かされているという事実

    情熱的かつシャープ。そう形容するのが妥当かもしれない。理学部数学科と建築デザインの学びを経て、ITシステム開発や不動産開発の世界に身を投じたのち、2014年に自ら会社を立ち上げた。この経歴を並べるだけなら、行動力のあるビジネスパーソンという印象にとどまるかもしれないが、彼女にはそれをはるかに超える“何か”がある。それは「生きるとは何か」を問い続ける探究者の目だ。

    会社員時代、ITや不動産という資本主義のど真ん中に関わりながらも、彼女の思考はいつも「自然との共生」や「お金至上主義ではない価値観」へと向かっていたという。どれだけ稼げるか、利益を上げられるか。それはビジネスの大切な要素ではあるが、どうもその一辺倒では息苦しい。大地や人間、そこに生きる動植物すべてが共鳴し合い、あらゆる命が調和を保つ世界を夢見る彼女にとって、「人間が自然を所有物のように扱いひたすら開発を進める」現状は見過ごせなかった。

    その思いが、彼女を“生命建築”の道へ駆り立てる強烈な原動力になった。「人間は自然に生かされている」という、大学生時代に坐禅を通じて得た自然に対する畏怖の念が、いつしか自らの生き方を決定づける鍵になっていた。暗闇から薄明へ、そして光が満ちるまでの時間。夜から朝に移り変わる自然の気配を敏感に感じ取りながら、時計の針ではなく、空気と大地の鼓動に染まった時の流れを肌で知ったのだ。そこには「この世に存在する全ての生命は、常に移り変わり、相互に共存している」という事実が映し出されていたという。

    マインドフルネスは「内省」の力

    企業勤めを経て独立した後、彼女がまず取り組んだのは、自分の居場所づくりだ。それが「ThinkSpace鎌倉」である。都心からのアクセスがよく、また豊かな山や海の息吹が感じられる鎌倉という土地。さまざまなバックグラウンドを持つ人々が通い合い、誰もがいまここに意識を置いて働いたり語り合ったりできる空間を生み出した。普通のコワーキングスペースと何が違うのか、彼女はこう言う。「この場所にいると自然と呼吸が深くなるんです。心がほどけて、人との関わりやアイデアがスムーズに流れはじめる。」そう、ここには単なるワークスペース以上の「場の力」がある。マインドフルネスが根底に流れ、自然に対する感性を研ぎ澄ませながら、内省できる場づくりが意図的にデザインされているのだ。

     やがて彼女の活動は、単なるオフィス設計やコミュニティづくりを超え始める。内省と創造性を高める空間設計を担うようになり、都心のメディテーションスタジオやマインドフルネスルーム、リトリート施設、葬儀場を監修し、各地に祈りや癒しの空間を届けている。さらには、これからのウェルビーイングな働き方を提案するイベント「鎌倉ワーケーションWEEK」も定期的に開催。地元の仲間と「鎌倉ウェルビーイングラボ」を立ち上げ、新たなビジネスやプロジェクトが生まれる土壌を育てている。多彩な事業を手掛けているように見えるが、その軸はブレない。「人間が自分自身、そして他者や自然とのつながりを取り戻すには、どんな場が必要か」を徹底的に考え抜いているのだ。

    彼女が語る「マインドフルネス」は、決してスピリチュアルの文脈にとどまるものではない。むしろ外界の刺激に振り回されて疲弊しがちな現代人にこそ必要な「内省」の技術だと捉えている。朝の静かな時間に座って呼吸を感じるだけではない。食事をするとき、一口一口を味わいながら「いまここ」にいることもマインドフルネスだ。仕事の合間、ふと立ち止まって木漏れ日を眺めたり、地面に根をおろすように自分の体の声を聞いたり。そのような小さな実践が、やがては大きな創造性や周囲との調和につながっていく。だからこそ、彼女は空間自体に「呼吸できる余白」を組み込むという。

    視線がふっと抜ける窓辺のレイアウト、木の香りを感じる建材、そして人々が自然と語り合えるコミュニティ設計。生き物が細胞レベルで心地よいと感じる場をつくり出す。それが彼女の言う「生命建築」の根幹だ。

    自分の心と体に向き合って

    ジョン・ミューアという自然保護活動の父とも呼ばれる思想家は「最も明確な道は、森の中を歩く道である」と述べている。人間社会が複雑な経済活動や政治対立に彩られるなかで、ミューアは大自然の中にこそ最も純粋で力強い真実があると説いた。森の息吹に身を委ねるとき、私たちは不要なノイズから解放され、自分が「自然の一部」であることを思い出せるのだ。彼の思想は今なお色褪せることなく、多くの人々をインスパイアし続けている。

    岩濱サラもまた、このジョン・ミューアの感覚を体現するかの如く、「森」と「海」、そして「呼吸」に注目している。コンクリートジャングルの都会に生きながらも、どこかでひそかに自然を求めている人々の魂を呼び覚ます。そのために、建築家としていのちの循環を取り戻す作品をつくり続ける。無機質な箱の中にいては気づけない豊かさを、空間のデザインとコミュニティによって引き出そうと奮闘しているのだ。

    若者へのメッセージを尋ねると、岩濱サラは静かに微笑んだ。情報もタスクも溢れかえる時代に生きる若者は、どうしても外側の評価や競争に押し流されがちだ。だが本当に必要なのは、自分の内側と自然に目を向ける時間だという。「自分にとっての幸せややりがいは何なのか、まずはそこを探究してみてほしいんです。心や体が心地よい方向へ進んだ先に、きっと新しい景色が広がります。」それはいのちの視点から見た人生と仕事のかたちだろう。利益だけを追い求めるのではなく、生命を大切にする建築、そして社会を育んでいく仕事がある。その証明を、彼女は日々の実践によって示し続けている。

    生命建築とは大げさな物言いのようでいて、実は人間本来の感覚を取り戻す行為でもある。マインドフルな空間に身を置けば、誰もが素の自分に還りやすくなるはずだ。人と人が出会い、自然や街と響き合い、いのちを祝福し合うような場。そんなコミュニティが世界中に広がっていけば、個人の暮らしも、働き方も、社会そのものも、深いところで変化を遂げることだろう。今、その可能性を信じて突き進むのが、岩濱サラ率いるマインドフルネス・アーキテクツ株式会社なのだ。

    まるで森の奥を迷いながらも、確かな道を探り当てる探検家のように。現代社会の喧騒を抜け、静かな呼吸を取り戻す道筋を、彼女は生命建築という形で私たちに差し出している。

  • 株式会社APILLOX 山下雅弘

    株式会社APILLOX 山下雅弘

    転職市場を照らす若き変革者

    熊本の加藤清正が築いた熊本城と、神奈川の港湾都市・横浜が開国で果たした役割は、異なる時代に異なる形で日本の「開拓」を象徴する。偶然か必然か、この二つの土地を背景に持つ男、山下雅弘が、今、新たな開拓者として立ち上がった。株式会社APILLOX。その名はギリシャ語の「無限大」を意味する「アピロ」と、変革を表す「X」を組み合わせたものだ。

    2024年8月8日に設立されたこの会社は、たった1人から始まり、「1人目」という独自の採用マッチングサービス「Hitorime」を武器に、企業と求職者を結びつけるIT事業を展開している。

    「固いってすぐ言われちゃうんですよね…笑。」山下雅弘、株式会社APILLOX代表取締役社長。インタビュー開始直後、彼は笑いながらこう言った。だが、その軽妙な口調の裏には、鋼のような意志と熱が宿っている。「挑戦を身近に感じる社会を作りたい。」彼のその言葉は、まるで熊本の火の国の情熱と、神奈川の海風のような柔軟性を融合させた、何かを感じる。

    逆転合格と父の死

    山下雅弘の人生は、情熱と挫折、そして再起の調和と言っていい。大阪大学出身。一浪して逆転合格を果たした彼は、すでにその時点で「やらざるを得ない環境」を自ら作り出す才能を示していた。「家ではご飯と面白いテレビしか見ない。塾に行ったら携帯を触らず勉強する。これを徹底していました。」この切り分けが、彼をビリギャルばりのセンター試験180点アップへと導く。そして新卒で選んだのは、大手ではなくベンチャー企業。「みんな、富士通とかパナソニックといった大手中の大手企業に行きましたね。でも僕は独立を見据えてたから、尖ったところに行きたかったんです。」

    彼の選択は、周囲の常識を軽やかに蹴散らすものだった。そして、入社わずか4ヶ月後の8月には副業を開始。「ビビリな性格だから、いきなり独立は怖くて…笑。」と彼ははにかむが、その慎重さの中に燃える野心は隠せない。1年で副業での時給を倍にし、個人事業主へ。そして節税対策として法人化。まるで階段を一つずつ確実に登る登山家である。

    だが、彼の人生を大きく決定づけたのは、同じく経営者として活躍していた父の死だった。大学時代、頑固でぶっきらぼうな父が亡くなった時、彼は衝撃を受けた。「父の葬儀では、会社の方々が血縁関係でもないのに泣いてた。家じゃ頑固親父だったのに、仕事に真っ当に向き合ってたんだって、初めて気づきました。」その瞬間、山下の中で何かが弾けた。「純粋にかっこいいなって思った。自分も死ぬ時にこうなりたいと思いました。」この原体験が、彼の人生のゴールを定めた。父の姿は、彼にとって鏡であり、挑むべき山だったのである。

    そしてエンジニアとしてフリーランスになった期間中、彼はあるスタートアップで「1人目エンジニア」として働いていた。そこは5、6人の小さなチームだったが、彼は正社員さながらにフルタイムで関わり、採用や他のエンジニアメンバーへの指示出しまで担った。「業務委託を超えて様々な経験をさせてもらいました。そのときに気づいたんです。『これだけやらせてもらえているのって、もしかして自分が1人目だからなんじゃね?』って。」その気づきが、「Hitorime」の種となった。他の転職サイトでは埋もれる様々な企業の「1人目ポジション」を、求職者に届ける。それが彼の戦場だ。

    「1人目」の価値

    もはや終身雇用が美徳とされた時代は過ぎ去った。今や転職は若者の特権ではなく、中高年の日常にもなりつつある。売り手市場と呼ばれる転職戦線、求職者は条件を吟味し、企業は人材を求めて右往左往。人を選ぶ側だった企業が、いまや選ばれる側に立たされ、時代の潮目は静かに、だが確かに変わった。

    「Hitorime」は、単なる採用サービスではない。山下は言う。「求職者には『挑戦したい気持ちがあれば、ここは宝の山だよ』って伝えたいですね。」彼の仕事へのこだわりは、徹底した「特化」にある。他の媒体が何万件もの求人を並べる中、彼は「1人目」だけに絞り抜いた。検索の母数が下がれば、自分に合ったポジションがもっと簡単に見つかる。嘘がない前提が担保されている。この潔さが、山下の強さだ。

    企業にとって、最初のメンバーは組織の文化を形作り、事業の方向性を定める礎だ。山下氏自身、先述のとおりフリーランス時代に「1人目エンジニア」として小さなスタートアップに参画し、採用や指示出しまで担った経験を持つ。「裁量を持って仕事できたし、責任感がより一層あって楽しかった。」そう、採用における「1人目」の価値は在る種、春の種まきに似ているのだ。一粒の種が芽を出し、やがて大木となる可能性を秘める。

    彼はまた、自己成長への執着を隠さない。「今後の不満点や改善点は、AIでなんとかできないかとつねに考えています。エンジニアとして勝負してきた経験をどうにか活かしたい。」デザインの限界を感じれば人を巻き込み、事業を磨く。「今後、もしかしたら会社名は変わるかもしれない。でも、挑戦を身近に感じる社会を作るっていうミッションが変わることはありません。」Z世代の「働きたくない」ムードに抗って、まるでドラクロワの絵画のように旗を振る彼の姿は孤独な戦士のようだ。だが、その孤独は、彼を突き動かす燃料でもある。

    「父の事務所に今でも電話がかかってくるときがあります。嬉しいと同時に、やはり無念な気持ちがどうしてもある。だからAPILLOXは、無限に変革を続けて、現代社会と人々の心に残る会社にしたい。」彼の声には、熱と覚悟が滲む。

    ニッチこそ至高

    1877年から1940年を生きたアメリカの伝説的株式トレーダー、ジェシー・リバモア。自己流の手法で市場を読み、1929年の大暴落で巨額の利益を叩き出したのは周知の事実である。彼は群衆の熱狂に流されず、独自の視点でリスクに飛び込み続けてきた男だ。「市場は決して間違っていない。間違っているのは人の意見だ。」この至言はリバモアの冷徹な洞察を表していると言えよう。

    もしかしたら、山下雅弘こそ、まさにリバモアが投資対象として目を輝かせる原石と言えるかもしれない。なぜか? 山下は、誰も見向きもしない「1人目」というニッチを見抜き、そこに全力を投下する。リバモアが株価の動きに賭けたように、山下は社会の潜在ニーズに賭けている。彼の「Hitorime」は、市場の隙間を突く鋭い刃だ。

    山下の事業への想いは、未来へと伸びる。「Hitorimeが愛され続けるプロダクトになってほしい。起業を志す若者がHitorimeで自分を大きく成長させる会社にであい、そこで経験を積んで、今度は自分で会社を起こし、Hitorimeを使ってまた次の起業を志す若者と出会う。そんなサイクルを作りたい。」彼の目は、父の遺した事務所を超え、国さえ変えるビジョンを見据える。

    成長を求める求職者と、未来を切り開く企業。その出会いが、この「Hitorime」という小さな窓から始まるならば、転職市場の春は、もう少し色鮮やかになるだろう。

    山下雅弘。彼の「Hitorime」は、単なるサービスではない。それは、彼の人生そのものだ。

  • KINCARN INTERNATIONAL SCHOOL

    KINCARN INTERNATIONAL SCHOOL

    国際教育の最前線

    現代において、国際教育がかつてないほどの重要性を帯びていることに疑いの余地はない。グローバル化が世界を覆いつくし、多文化共生、多言語運用能力、異文化理解力の必要性がますます顕在化している中、特に幼児期からのバイリンガル教育への需要は右肩上がりに高まっている。世界的な視野を持ち、認知能力を高め、異文化理解力を深めることこそが、新時代を生き抜く子どもたちに求められているのだ。

    インターナショナルスクールは今や世界で1万3千校を超え、生徒数は約580万人、市場規模は7兆円近い。アジアでは香港やシンガポールを筆頭に、質の高い教育を求める家庭が今、着実に増えている。

    その最前線に位置するのが、川崎市に位置する「KINCARN INTERNATIONAL SCHOOL」である。幼稚園と保育園の両方の機能を持ち、国や市の補助金の対象にもなっているインターナショナルスクールだ。株式会社KINCARN代表取締役にして園長を務める瀧澤昌子は、この新時代の教育を象徴する人物と言える。

    無いものは作ればいい

    彼女の経歴は、熱く、力強い。もともとは普通の企業に勤めていた彼女だが、我が子の教育環境を探し求める中で、社会が必要とする理想の教育が見つからないことに直面した。川崎という大都市圏においても、自分が思い描く「日本の幼稚園の良さ」と「国際的な視野」を融合した環境は存在しなかったのだ。無いものは作ればいい…瀧澤は、この単純で大胆な発想を現実に変えるため、行動を起こした。

    彼女は会社勤めの昼休みに経営のためのスクーリングの授業を受け、ビジネスの基本から学び始めた。当時、第三子を妊娠中であったにもかかわらず、産休の時間すら活用し、徹底的にリサーチを重ねた。「自分が理想とする場所がなければ、自分で創ればいい」その情熱に突き動かされ、1998年、ついにKINCARN INTERNATIONAL SCHOOLを設立するに至った。

    最初は園庭すらない小さなマンションの一室からスタートした。しかし、彼女の情熱と教育への純粋な想いが周囲を巻き込み、やがて理解者と支援者が現れ始めた。現在では駅から徒歩圏内という好立地に広々とした園庭と施設を構えるに至っている。これは単にスクールが成功した証だけではなく、彼女が掲げた教育理念が、多くの保護者や教育関係者の心を強く動かした証明でもある。

    理想的な教育環境

    瀧澤代表が掲げるKINCARN INTERNATIONAL SCHOOLの教育は、語学を教えるだけの学校ではない。日本国内で過ごしつつも、その生活様式やコミュニケーションに悩む海外の人々のための受け皿という役割も担っている。つまり日本語も外国語も同等に尊重し、多文化共生をリアルに体現する場所なのだ。現在、園には日本をはじめ日本、イギリス、ドイツ、ベルギー、フィリピン、カナダ、ジンバブエ、オーストラリア、フランスといった9か国の教員が在籍し、多様な文化のイベントを通して世界を体感できる場を提供している。

    世界各地から教師を集め、様々な国の文化行事を取り入れることで、子どもたちは幼い頃から自然に国際感覚を身につける。多様性と異文化理解を教育の柱として、私たちが育てるべき次世代の姿が、そこに垣間見えるようだ。

    各国の大使館も積極的に協力するなど、その教育環境は世界そのものを小さく凝縮したような理想的な空間…KINCARN INTERNATIONAL SCHOOLが提供するのは、ただのバイリンガル教育ではない。未来のグローバル市民を育てるための「環境」そのものなのだ。

    地球規模で考えること

    明治時代に日本の女性教育の礎を築いた津田梅子。彼女は「環境がなければ自分で作る」ことを恐れなかった先駆者だった。「教育とは未来のために現在を投資すること」と梅子は言ったが、瀧澤代表もまさにそれを地で行く人物である。津田が海外留学の経験から、日本女性の自立と国際的な視野の必要性を訴え、行動を起こしたように、瀧澤もまた、自らの実体験を元に次世代の子供たちが世界に羽ばたくための環境づくりに力を注いでいる。

    津田梅子の名言に「夢は高く持ちなさい。そして、それを実現する努力を惜しんではならない」という言葉がある。瀧澤代表もまた、教育という夢を追いかけ、努力を惜しまず、困難を当然のように乗り越えてきた。瀧澤代表が今後見据えるのは、日本の教育をさらに広く、深くグローバルなものにしていくことだ。そのために彼女は常に新しい試みを止めない。

    彼女が抱くのは、単に「外国語が話せる子どもを育てる」ことではなく、異なる文化を尊重し、多様な価値観を柔軟に受け入れ、地球規模の課題を自ら解決できる力を持った人材を育成することである。彼女が次世代の若者に向けて伝えるのは、自分自身の可能性を信じ、「ないものは作ればいい」という前向きで挑戦的な精神である。

    KINCARN INTERNATIONAL SCHOOLが目指す教育の形は、まさに日本がこれから必要とする教育の姿そのものだ。彼女のような強い信念と実行力を持つ教育者がいる限り、国際教育の未来は明るい。

  • 小田原紙器工業株式会社 高橋康徳

    小田原紙器工業株式会社 高橋康徳

    変化に呼応し続けてきた業界の雄

    紙器。段ボールや紙箱といった、紙製の包装容器を指す。1909年、国産の板紙が産声をあげたときから、この業界はいつだって変化を求められてきた。

    角のとれた木箱の代わりに、強くて軽い段ボールが席巻し、戦後の復興期にはコルゲータシステムの轟音が生産性を跳ね上げた。災害が起これば仕切りや物資の梱包として誰かを救い、環境の声が高まれば軽量化やリサイクルに挑む。EC市場が拡大し、どんな時代も商売は動く。そこに必要なのは、単なる箱じゃなく、衝撃を吸収しながらも期待を詰め込む空洞だ。この国の紙器業界は、どんな嵐にも耐えてきた。その理由は、誰かの暮らしに確かな現実を届けるためだ。ビジネスが続く限り、段ボールの山は消えない。むしろ、それが明日の希望を守る装置になる。

    時代の荒波を突き進むかの如く、紙器業界は今日も絶え間なく変貌を遂げる。何の変哲も無い箱に刻み込まれてきた情熱の歴史と、未来へ向けた新たな挑戦。その両極端が交錯するこの業界において、神奈川でひときわ異彩を放つのが小田原式工業株式会社、そしてその舵を取るのが高橋康徳代表である。

    昭和20年の創業以来、80年余りの長い歴史を背負いながら、日々の品質追求と革新の精神で、紙器や段ボール、軟包装印刷、そしてオリジナルラベルやペットボトル天然水といった多岐にわたる事業を展開してきた。これらのプロダクトは、品質への徹底したこだわりと、時代の最先端を行く技術革新の賜物、そして社員一人ひとりの熱意と誇りが形となって現れている​​と言っても過言ではない。そして今やその基盤は神奈川県小田原市を中心に、富士工場、開成工場、さらには東京支社と多角的に広がり、地元の風土と都会の洗練が奇妙なまでに融合している。

    トップ営業マンによる多角化戦略

    かつての都内勤務時代。高橋が大手家電量販店の販売員として足並みを揃えながらも、自ら店長にまで上り詰め、日本一の新規契約を叩き出したという逸話は、彼自身の底知れぬ野心と行動力を物語っている。その頃から既に、彼の内面には「試してみる」という原動力が確固たる信念として根付いていた。

    そんな彼の経営手腕は、ただの数字上の成功だけでは測りきれない。たとえば、コロナ禍という未曾有の危機に直面した際、製造業としての脆弱性を逆手に取り、従業員自らが立ち上がり、PCR検査センターの設置という一見突飛ともいえる施策を実行した。これは、企業がいかにして、時代の荒波に揉まれながらも自らの信念を曲げず、現場の知恵と団結力で困難を乗り越えるのかを象徴するエピソードといえよう。

    高橋は単なる危機管理を超えて、その背後にある可能性を見抜く眼差しを持ち、事業の多角化を加速させた。当時から長く製造している箱だけにとどまらず、オリジナルのペットボトル天然水事業への参入、さらには農業法人の買収による米や大豆、さらにはドローンによる新たな農業手法の導入といった、常に「次」を見据えた戦略が次々と実現されている。

    もっと軽く、もっと丈夫に。

    都内での華やかなキャリアを背景に、あえて地方の地に根を下ろす決断をした高橋。都心まで新幹線で33分という距離感が、地方と都市を巧みに結びつけ、経済活動においても地元資源を最大限に生かすという戦略に繋がっているのだ。

    現在、小田原紙器工業株式会社は地産地消の精神を超えて、地元で培われた良質な素材や人材を、国内外の市場へと届けるために奔走する。その姿は、まるで一匹の鷹が高い空を舞い、地上のすべてのエネルギーを吸い上げるかのように、力強く、そして美しい。

    そしてデジタル印刷機の導入やISO認証、さらにはFSC®認証の取得といった数々の挑戦は、技術革新と環境への配慮が手を取り合う現代社会において、企業としての責任感と革新力を象徴する。そこには、過去からの教訓と未来への希望が見事に交差し、知る者に強烈な感動と信頼を与えるのだ​。

    かつては大量生産・大量消費が当たり前だった紙器だが、今は環境が悲鳴を上げている。紙器製造業は新しい技術とアイデアで、もっと軽く、もっと丈夫にしていく。積み上げてきた歴史と研鋭な感性が結びつき、我々の未来を包む箱は、まだ幾らでも変わっていく。この一見地味なモノが、その裏で人と社会を繋ぎ止める存在になり得ると信じていい。そのかけがえのない存在を創り上げる技術と情熱こそが、小田原紙器工業株式会社の真骨頂だ。

    折り目の奥に見える未来

    戦国の荒波を駆け抜けた武将、真壁氏幹。その名は「鬼真壁」とも呼ばれ、恐るべき剣豪として歴史に刻まれている。常陸国の国人領主の子として生を受け、剣聖・塚原卜伝に学び、長さ2メートルもの「樫木棒」を自在に操るその姿は、戦場での革新的な戦法を生み出す原動力となった。彼は佐竹義重に仕え、数多の激戦に身を投じながら、独自に「霞流棒術」を創始するなど、常に時代の先端を行く挑戦者であった。

    高橋も会社を率いながら、伝統そして新しい存在との融合を体現している。かつて都内の最前線で磨かれた経験を基に、困難な状況下でも新たな可能性を切り拓いている。単なる数字の羅列に留まらず、社員一人ひとりの情熱と絆を深め、企業文化そのものを革新的なものへと昇華させている。小田原紙器工業株式会社は、紙という一見儚げな素材を通じて、豊かな社会の礎を築く、まさに今の日本社会に欠かせない存在だ。

    これからはグループとして、第六次産業に進出すると語る高橋。彼の生き様は、決して過ぎ去る一瞬の煌めきではない。小田原の希望の灯火として、次世代へと受け継がれていくのだ。

  • 株式会社三和交通 溝口孝英

    株式会社三和交通 溝口孝英

    業界を揺るがす台風の目・みぞ部長

    旅先で空港に降り立ち、疲れを感じながらもタクシー乗り場に向かうと、ドライバーの明るい声で迎えられる。こんな光景は、どこかほっとする日本の日常だ。かつては「割高」「手を挙げづらい」といったイメージもつきまとったかもしれないが、最近では感覚がずいぶん変わった。ベテランの乗務員が描く快速で丁寧な走りは、町のガイド役もこなす「おもてなし」の姿勢が随所に表れる。道中の会話を楽しめば、ふとした観光情報や地元の魅力を教えてくれることもしばしばだ。

    日本のタクシー業界が新たな局面を迎えている。コロナ禍をきっかけに需要は変動したが、その試練を逆手に取った業界の取り組みが光る。スマートフォンのアプリを通じて簡単に配車を呼べる仕組みや、キャッシュレス決済の普及は利用者の手間を減らす。先進技術との融合も加速しており、自動運転に向けた実証実験は未来の交通手段としての可能性を感じさせる。英語や中国語など多言語対応の端末を備える車両も増え、国際化する都市の足としての準備は進むばかりだ。

    街を走るタクシーを眺めると、かつては一律的だったサービスが多様性を帯びてきたことを実感する。知らぬ土地で安心をもたらし、時には温かな会話で乗客を励ます…そうした人間味あるタクシーの役割は、技術革新の波を得てなお輝きを増しているのではないだろうか。

    そんなタクシー業界において、三和交通株式会社という会社を耳にしたことがある人は少なくないだろう。東京都、神奈川県、埼玉県を中心に660台もの車両を擁し、“あること”で業界内外からの注目を集め続けている企業だ。その注目点の中核を担う男がいる。取締役本部長・溝口孝英、タクシー業界における概念を大きく塗り替え、SNS時代の風を読み、時には踊りながら、三和交通を独自の進化へと導いてきた人物だ。

    “踊る”という選択

    溝口のキャリアは、決して一直線のものではなかった。高校卒業後、彼はトラックの運転手、家電配達、飲食業、町工場、整備工場と、様々な職を転々とした。そして平成3年、タクシードライバーとして三和交通に入社する。彼がタクシー業界を選んだ理由は至ってシンプルだった…「ゴルフがしたかったんですよ。」

    そんなタクシードライバーという仕事の最大の魅力は、自らの時間をコントロールできることだと語る。他の仕事より比較的だが、ゆっくりと子どもの顔を見ることができる。最初は、それだけだった。しかし、タクシーという仕事を続ける中で、彼は「人を運ぶこと」の奥深さに気付き始める。乗客との一期一会の出会いの中で、彼はただ目的地へ運ぶだけでなく、サービスの質が旅の印象を大きく左右することを実感した。バブル期の華やかさもまた然り。深夜、繁華街で乗せた客1名から突如、合計22万円ものチップを手渡されるという出来事もあった。あの時代特有の活気と経済の勢い。それが、当時のタクシー業界を支えていたのだ。

    そして時代は変わる。バブル崩壊後、業界のあり方も変化し競争はより厳しくなった。そんな中でも、溝口は自身の経験を活かし、タクシーという仕事をただの「移動手段」ではなく「人とのつながりの場」として捉え直していった。1997年には営業所管理を担当し、その後、取締役本部長にまで上り詰めた溝口。しかし、彼の本当の戦いはそこからだった。変わりゆく社会の流れの中で、タクシー業界をどう発展させるのか。その問いに、彼は「踊る」という大胆な回答を出した。

    2019年、TikTokというプラットフォームが若者の間で爆発的な人気を誇るようになった頃、溝口はこの新たな波に乗ることを決意する。当初、軽い気持ちで始めた「おじさんが踊ってみた」動画が予想外のバズを生み出し、フォロワー数は2025年2月時点で30万人を突破。ぽっこりとしたお腹、短めのネクタイ、そしてキレのある…とは大きな声では言えない動き。そう、彼のダンスは「完璧なもの」ではなかった。しかし、それが良かった。瞬く間に若者に浸透し、今では「一緒に踊りたくて入社しました」という新入社員が現れるなど、人材不足が嘆かれている今のタクシー業界に、強烈なインパクトをもたらしたのである。

    神奈川随一の企画力・実行力

    溝口をはじめアイデアゆたかな人材が豊富な三和交通の魅力は、何よりもその圧倒的な企画力、そして実行力にある。社員全員が自由に企画案を出し合い、面白そうなものはすぐに実行に移す。たとえ結果が伴わなくても、それは問題ではない。三和交通で大切なのは、つねに「新しいこと」に挑戦する文化を持ち続けることだ。例えば、心霊スポット巡礼ツアーや、サンタクロース姿のドライバーが乗客を迎える「サンワクロース」企画。これらの施策は、タクシー業界の枠を超えエンターテインメントとしての価値を持つようになった。

    三和交通の魅力は、それだけではない。単なる移動手段ではなく、乗ること自体を特別な体験にするという哲学が根底にある。例えば「タートルトタクシー」という、あえてゆっくり運転するサービスは、忙しい現代人に一息つける空間を提供する。また、盲導犬や車いす利用者向けの登録サービスを導入し、誰もが安心して利用できる環境がそこにある。

    タクシードライバーの働き方改革にも積極的だ。柔軟なシフトや、充実した研修制度を導入し、新しい世代が業界に馴染みやすい環境を整えている。

    目的地はつくるもの

    長編小説『南総里見八犬伝』を28年もの歳月をかけて執筆し続けた滝沢馬琴は「物語を語ること」に生涯を捧げ、失明後も口述筆記を用いて筆を止めなかった執念の作家であった。一方で溝口もまた、三和交通という「物語」を、まさに己自身で語り続ける存在だといえよう。三和交通はこれからも時代の変化の荒波を鋭く感知し、独自の方法で業界の未来を描き続けるのだ。

    移動手段の多様化が進むなか、タクシーという選択肢は快適と安心、そして人と街をつなぐ温もりを乗せて走る。忙しい現代人の一息つける空間として、タクシーはこれからも輝きを増し続けるに違いない。春の光に照らされた車体が、今日も大切な人と場所とを静かにつないでいる。

    そして溝口の旅はまだ終わらない。次なるステージへ向けて、彼は今日も踊る。そして、そのリズムに、三和交通という企業の未来が乗っている。