いつでも、なんでも、誰でもまず診るクリニック
都市の縁辺、綾瀬に佇むショッピングモールに埋め込まれた白色光のクリニックは、人間という「生態系」の盲点を照射する顕微鏡でもある。入口でスマホを握った青年も、杖をつく老婆も、同じドアをくぐる。そこが きくち総合診療クリニック、菊池大和院長が率いる“総合診療かかりつけ医”の前線基地だ。 「いつでも、なんでも、誰でもまず診る」という菊池の信条が2017年4月に形となったきくち総合診療クリニック。2025年現在ではすでに綾瀬市人口8万2,000人の約半数がこの扉をくぐったという驚きの数字を持つ。

「かかりつけ医」とはなにか

外科と救急で12年もの間、手術に明け暮れた菊池。だが彼が現場で見たのは、予防と早期発見が行き届いていない現実だった。「切る前に拾え」という本能が、彼を開業の意志へと進ませた。開業時に掲げたのは総合診療かかりつけ医、つまり専門医でも総合診療医でもない、あえて“全て診る”という医師像。彼にとって標榜科目は保健所提出のためのラベルにすぎなかった。かかりつけ医、という言葉の本来の意味はなにか…ある種「胸が痛い=循環器」などという臓器カードゲームを終わらせる宣言だったのである。 2020年春、未知のウイルスが世界中を襲った。多くのクリニックが門を閉ざすなか、彼はスタッフと協力し、一日200人規模で発熱患者を受け入れる体制を整えた。「もちろん私も怖かったし、スタッフも怖かった。他のクリニック様で発熱外来をお断りされる気持ちもよくわかります。でもかかりつけ医を名乗っている者として、診ないのは違うなと。また、発熱だからといって必ずしも新型コロナウイルスが原因というわけではないですから、その原因を突き詰めないままでいるのは、かかりつけ医失格という意識がありました。スタッフには本当に感謝しています」菊池は当時を振り返り、そう語った。
医師としての矜持
テクノロジーは知識を供給しても、世代を問わず不安の代謝は担わない。だからこそ信頼できる一次フィルターが必須になる。総合病院・大学病院並みの医療機器を揃え、どんな症状の患者さんでも一通り検査する。緊急性をすぐ判断し、連携している病院にスムーズに紹介できる。CT、MRI、レントゲンが壁一枚隔てて並ぶレイアウトは、“専門の分断線”を内側から破るための戦略配置だ。 救急外来での経験から、病も人の営みも09時〜17時で区切れるものではないと知っている。夜間の子どもの喘息発作も、日曜の高齢の方のめまいも、この灯りの下で受け止められる。 江戸中期の医師・安藤昌益は「自然世」の平等を説き、封建制と特権医療を批判した。畑を耕し、病む者を選ばず治した昌益の視座は、今日も綾瀬のショッピングモールに宿っている。菊池は、まるで安藤が求めた“無差別の治療”を二一世紀に具現化する総合診療かかりつけ医のようだ。

日本中に「総合診療かかりつけ医」を増やしたい
総合診療医。特定の病にとらわれず、生物・精神・社会環境の三位一体で患者を診るその姿は、患者の語る“日常”を丁寧に聴き、量産された治療プロトコルだけでは届かない領域を見据えている 。 一方、「総合診療かかりつけ医」はまた別格だ。彼らは“いつでも、なんでも、だれでもまず診る”覚悟を胸に、まるで地域の守護者のように開業する医師である 。患者のちょっとした違和感や、家族の些細な心配に耳を澄まし、必要なら専門医へそっと橋渡しをする。その行動は、厚労省が示す“緩やかなゲートキーパー”としての役割そのものだ。 菊池の次の企画は若手医師オンラインサロン。医学生には授業では教わらない“社会問題の解剖学”を語り、開業医には、医師としての本当の社会貢献の可能性について熱量高く説く。「僕も医学生のときをちょっと思い返すと、医師としての将来のことについて考えるタイミングがあまりありませんでした。今もブログなどでも日々発信していますが、若いうちから、こんなにやりがいを持って社会に貢献できる医師の働き方があるんだよ、と伝えていきたい。医師でなくても、何事にもチャレンジして、お金ではない、やりがいが持てるなにかを見つけることが大切だと思います」 高度医療は確かに美しい。しかし、いつでも、なんでも、誰でも診療してくれる環境、それこそが、本当に人間の健康を支える光なのではないか。きくち総合診療クリニックこそが、“総合的に”、そして“かかりつけ”として、医療の未来を静かに照らしている灯台と言えよう。 近い将来、日本の医療を救うのは、総合診療かかりつけ医にちがいない。 ・菊池大和院長のブログは こちら
