CHALLENGERS' VOICE
天命に従い、患者のために尽くせ
総合新川橋病院 副院長
佐野 公俊 Sano Hirotoshi

1945年、東京に生まれる。1970年に慶應義塾大学医学部を卒業後、米軍横須賀海軍病院インターンや慶應大学病院での研鑽を経て、名古屋保健衛生大学および藤田保健衛生大学で脳神経外科のエキスパートとして活躍。動脈瘤クリッピング手術の実績はギネス記録に登録され、世界脳神経外科連盟血管障害部門委員長も務める。2010年より総合新川橋病院副院長。

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その姿は名医か、挑戦者か。

日本の医学史を振り返ると、そこにはつねに“人を救う”という、極めてシンプルでありながら、時に国の制度や社会構造とのせめぎ合いに挑戦し続けてきた先人たちの姿がある。西洋医学の導入期から戦後復興期、そして今に至るまで、医師たちは技術と熱意と研究心を両輪に、世界に劣らぬ成果を積み上げてきた。その歩みは決して平坦ではなく、海外からの情報に翻弄されたり、経済的な制約や法制度に阻まれたりと、幾度となく立ち止まらざるを得ない場面があった。そうした中、日本の医学界は持ち前の探究心と緻密さで障壁を乗り越え、先人の築いたレールを延長しながら独自の高みに向かって発展を続けている。 そして今、日本が迎えている高齢社会は、まるで医学の総合力を試す巨大なステージだ。ロボット手術、AI診断、血管内治療など、次々と登場する新しいテクノロジー。だが、それらの最先端の道具を使いこなすのは、あくまでも人間だ。先端技術がどれほど発達しても、生身の医師の経験と判断力に勝るものはない、と言う者もいる。なぜなら人体は、一筋縄ではいかない微細な神経と血管の集合体であり、一瞬の判断ミスが命取りになることだってあるからだ。だからこそ、今の日本医学には“技術と人間性の融和”という大きな可能性が眠っている。そこに、医師たちの熟達した技能と、患者に寄り添う丁寧さが合わさったとき、新しい未来図が切り拓かれるに違いない。 そうした未来への布石を、まさに自らの手で刻んできた医師がいる。脳神経外科医として「脳動脈瘤クリッピング手術の実績」をギネス記録として登録され、あの歌舞伎役者・中村獅童の手術も担当し、そして今なお第一線でメスを握り続ける佐野公俊先生だ。総合新川橋病院の副院長として、週に複数回の手術や外来をこなしつつ、インドや国内各地の若手医師に向けた教育にも力を注いでいる。そのエネルギッシュな姿は、単なる“熟練した名医”という肩書だけでは表現しきれない。むしろ新たな医療の扉を開こうとする挑戦者の顔をもっている、と言ったほうがしっくりくるだろう。

インタビューの様子

ギネス保持者の生誕地は防空壕

手術の様子

1945年3月11日、東京大空襲の翌日に板橋区の防空壕で佐野は生まれた。当時の日本は戦乱の嵐が吹き荒れ、医療はおろか、日々の暮らしさえままならない時代だった。しかし、「祖父や叔父が医師だった」という家族の影響もあり、“医師になる”という思いは幼少期から刷り込まれていたという。一方で、父親は神田で小さな時計屋を営んでいた。店にはピンセットやペンチといった道具が溢れ、幼い佐野少年はそれらを使って器用に工作をして遊んでいた。それが後に脳外科医として不可欠な“繊細な手先の訓練”になったのだと、佐野は振り返る。 浪人生活を経て慶應義塾大学医学部に進学。そこで待ち受けていたのは、覚悟と情熱を要する外科の世界だった。だが佐野は迷うことなく飛び込む。外科の中でも特に“脳神経外科”は当時、死亡リスクが高いとして忌避されがちな領域だったが、そこにあえて挑む。それは“よりきつい方向を選ぶ”ことで医師としての成長を目指す、佐野の生き方そのものだった。 卒業後、米軍の横須賀海軍病院で1年間のインターン生活を送り、英語のハンデや文化の違いに直面する。それでも、機知と技術をフル動員してアメリカ人スタッフからの評価を勝ち取り、自信を深める。そこから慶應大学病院に戻った彼は、脳外科の先駆的技術である「顕微鏡手術(マイクロサージャリー)」にいち早く目をつけた。まだ日本ではほとんど導入されていなかった手術用顕微鏡をなんと自費で購入し、毎晩コツコツと練習を積む。スポーツ選手が地道なトレーニングを続けるように、佐野は手先の感覚を磨き続けた。そして実際の手術でも顕微鏡を使うことで、血がほとんど出ない精密なクリッピング手術を可能にしたのである。 その後、新設の藤田保健衛生大学に移籍し、まだ人数の少ない脳外科部門で多くの症例を手掛けた。三万以上の患者を診察し、一万に近い手術を担当。5,000例にのぼる動脈瘤クリッピングの実績はギネスブックに登録されるという偉業を成し遂げた。一方で、術中に思わぬ心不全や出血に遭遇することもある。そんなとき、経験と準備がモノを言うのは言うまでもないが、それを支えているのは「最後まで諦めない」というタフさと執念だ。佐野は失敗に直面すれば自分を責め、二度と同じ過ちを繰り返さないように徹底的に対策を練る。ビデオを見返して手の動きを研究し、次に生かす。常人なら心が折れそうな場面を、さらに前進する糧に変えてしまうのだ。

困難こそ本質

幕末の長岡藩家老・河井継之助は、幕末の激動期に「隣人と国家のため、自己を捨てよ」というような自らの精神を貫き、己の信義と藩の未来のためにあえて苦しい道を選択し続けた人物だ。安易な降伏や妥協をせず、己の矜持を最後の瞬間まで守ろうとしたその姿勢は、表面上は理解されづらい部分もあった。しかし本質的には“自分がやらなければ、誰がやるのか”という、強烈な責任感と使命感に裏打ちされている。 安易な道を避け、困難の奥にこそ可能性を見いだす。周囲の無理解や制度の壁を突破するために、表舞台からは見えにくい部分で血の滲むような努力を積み重ねる。そして決して孤高に陥るわけではなく、あくまでも「困っている人を救う」ことや「次世代に道を残す」ことを最優先に考える。河井継之助が長岡藩の先を見据えていたように、佐野もまた「日本の医学の可能性」を見据えている。その情熱は、医療技術の先にいる患者と後進の医師たちに注がれている。 現在も、佐野公俊の情熱は衰えない。総合新川橋病院での診療と手術、それに並行してインドや国内の若手医師に対する指導を続けている。インドでは「佐野動脈手術学校」という形で現地の医師たちの前で実際の手術をモニター越しに見せながら解説を行う。日本でも難症例のビデオセミナーを開催し、貴重な実地経験を伝授する。このように第一線に立つ外科医が惜しみなく知識と技術を開示することは、今後の日本医学にとっても大きな財産であることは間違いない。 本人はまた「いくつになっても体力づくりと気分転換は大事ですからね。」と語り、40歳から始めたテニスも今なお週に数回のペースで続けている。体力維持もまた、一つのプロフェッショナルの条件なのだ。

インタビューの様子

何のために戦い続けるのか

今後、血管内治療やロボット手術、そしてAIの導入によって医療の現場はますます革新が進んでいくだろう。だが、佐野は決してその進歩を頭から否定しない。その一方で、医師が手を動かし、その手に伝わるわずかな感触をもとに瞬時の判断を下す。まさに人間の直感と経験に支えられた部分は、今後も色褪せることはないと信じている。テクノロジーに過剰に頼りすぎれば、難症例に出会ったときに“引き出し”が足りず、患者を救えなくなるかもしれない。だからこそ、日々のトレーニングや術前の入念な準備を怠らず、一度体得した技術を磨き上げ続ける。その姿は河井継之助のように“いま勝つため”ではなく、“未来を繋ぐため”に懸命に戦うかのようだ。 若者へのメッセージとして、佐野は常々こう語る。「安易な道へ行っては自分が伸びない。よりしんどい道、きつい方向に行くのが成功への近道」と。実際、苦労を避ければ一時的には楽だが、その先の視野が狭まってしまう。やりたいことが見えたときにこそ、そこへ飛び込んで挑む覚悟が大切なのだろう。河井継之助がそうであったように、“いま”だけではなく“未来”を担う責任感を背負い、時には人が行かない道を行く強さ。佐野は自身の技術と経験を武器に、まさにそのメッセージを体現している。 病院の廊下をスタスタと歩きながら、佐野は患者やスタッフに笑顔で声をかける。大事なのは“相手をよく見ること”だ、と言わんばかりの気配りがそこにはある。技術を磨き、経験を積み、そして目の前の人を救うために力を注ぐ。河井継之助の「隣人と国家のために自分を捨てる」精神は、医療の場における“患者や未来の医師のために尽くす”という形で見事に受け継がれているのかもしれない。

佐野先生