CHALLENGERS' VOICE
日々是感謝
三菱化工機株式会社 代表取締役・取締役社長
田中利一 Tanaka Toshikazu

1959年、栃木県に生まれる。大学3年時に持病の椎間板ヘルニアが悪化し、2年間の療養を余儀なくされるが、リハビリを経て復学。早稲田大学商学部卒業後、1985年に三菱化工機株式会社へ入社、人事・総務を中心にキャリアを積む。パタヤ(タイ)におけるケミカルプラント建設では現地でのマネジメントを担当。2021年取締役社長に就任し、経営改革を推進している。

https://www.kakoki.co.jp/

産業の系譜を創り続ける会社

産業界の荒波を乗り越え、時代の変遷を映す鏡のように、プラントエンジニアリング事業は今なお確固たる存在感を示している。かつて、重厚な鉄と機械音が響いた工場群の中で育まれた技術は、現代の複雑化する生産システムへと進化を遂げ、しかしその根底に流れるものづくりへの情熱は、決して色褪せることはない。 そして環境・水素・エネルギー事業では、温暖化という現実の災厄と向き合う中で、何か新しいものが生まれようとしている。水素エネルギーは、まるで一篇の詩のように、理屈では到底理解しがたい美しさと可能性を秘めている。技術者たちは、単なる効率や生産性を超え、まるで自らの内面と対話するかのように、新たなエネルギーのあり方を模索する。しかし世界は待ってくれない。急速に変わり続けてゆく。そんななか、産業の根幹を支え続ける企業がある。 川崎区大川町に本社を構える三菱化工機株式会社。1935年の創業以来、化学工業機械の国産化という命題を背負い、日本の産業発展の礎を築いてきた。その道のりは決して平坦ではなかったが、すべての時代を乗り越えてきた。戦争、高度経済成長、環境問題、エネルギー需要の変遷…そして今もなお、未来に向けて歩き続けている。 この三菱化工機を率いるのが、社長の田中利一である。栃木県に生まれ、スポーツ少年として育った彼は、大学時代に持病の椎間板ヘルニアに苦しむことになる。二年間の療養生活を余儀なくされ、一度は人生に希望を見出すことを諦めたが、リハビリを通じて多くの人との出会いを経験し、そこから得た学びを糧に社会に飛び出した。その軌跡は、時代の怒涛をものともせず、己の信念を貫き通す力強い精神そのものといえよう。 田中は単に企業の経営を実行する人間ではない。彼は実体験と感謝の心、そして未来への熱い志をもって、時代に新たな光を投げかけるまさに「現代の武士」であり、理想を追求する情熱家である。

インタビューの様子

なぜ「ありがとう」なのか

インタビューの様子

幼少期からスポーツに打ち込み、そのエネルギーと情熱を体現してきた田中。しかし、大学在学中に持病の椎間板ヘルニアが悪化し、人生が一変する。休学して約2年ほど療養生活を送った。学部の勉強に追いつけない。仲の良い同級生がいない。辛かった。しかし室内プールに毎日通い、痛みと向き合いながらも、そこで出会った人々とのふれあいが、彼の心に新たな光をもたらす。復学後、彼はかつての自由奔放な日々とは対照的な、厳しい自己管理と責任感に支えられた生活へと舵を切った。そこである意味、彼の人生は突然の暗転と同時に、内面の深淵に潜む「ありがとう」の意味を問い直す契機となったと自ら語る。 1985年、若き日の情熱に突き動かされ三菱化工機に入社。その時は当時の常務の目に掛かり営業職として迎え入れられたが、運命のいたずらか、すぐに総務・人事、そして海外プロジェクトといった多彩なフィールドに身を投じることになる。30代、タイのケミカルプラント建設にアドミニストレーターとして赴任し、現地で日本人スタッフとして現場の苦労と情熱を身をもって知る日々。現地での過酷な環境の中、更地から工場を立ち上げる任命を受けて一心不乱に働くチーム。部下や同僚たちの声に耳を傾け、ときには体調のすぐれないスタッフを現地の病院に連れて行ったり、ときには同じ食卓で酒を飲み交わし、「共に歩む」とはなにか、ということに気づく。そして彼はその時、感謝の言葉が、ただの挨拶ではなく、人と人とを結びつける根源であると確信した。 やがて、管理本部長、取締役と昇進。その頃の三菱化工機は、持続的に黒字を生み出せない体質に苦しんでいた。前社長とともに組織改革に取り組み、そのバトンを受け取った田中は先代社長とともにさらなる改革を進めた。自らの経験と人間性を武器に、厳しい経営環境の中で、一歩一歩着実に会社を再生させ、持続的な成長への道を切り拓いてゆくこととなる。 彼は語る。「今でも挨拶や感謝のことばを欠かすことはありません。当たり前の話かもしれませんが、会社の会議でも、家族との団らんの中でも、結局は人と人のコミュニケーションじゃないですか。私は学生時代を、ある意味人生をドロップアウトしていた期間だと捉えているんですよ。その感覚があるからこそ、相手を慮る姿勢と、双方素直に話せる環境をつくることを大切にし続けているのかもしれませんね。」

三菱化工機の“いま”

田中は、会社を単なる利益追求の機械と見るのではなく、社会のライフラインを支える、環境対策やクリーンエネルギーといった未来への希望を具現化する場として捉えている。2050経営ビジョンという壮大な目標のもと、技術革新と人材育成、そして何よりも「感謝の精神」を礎に、会社全体で次世代へのバトンを確実に渡す準備を進めているという。 プラントエンジニアリングの現場は、時に孤独な作業員が自らの存在を問い、風の音に耳を澄ませながら、無機質な部品が奏でる生命のリズムを感じ取る場所だ。そして温暖化や資源の枯渇といったグローバルな課題は、単なる政策論争の対象ではなく、今や実際の現場での技術革新を促す触媒にもなっている。 グループ全体で約1,000名の社員の総力で、三菱化工機は持続可能な社会の実現に向けて、まさに環境対策技術の開発と導入を加速させることが急務だと田中は語る。

面白きこともなき世を面白く

生涯で日本の未来を見据え、武士の在り方を根本から変えようとした高杉晋作。奇兵隊を組織し、身分制度を打破するという彼の改革精神は、まさに固定観念にとらわれず、常に挑戦を続ける者の姿勢を示している。幕末の動乱の中、高杉はわずか27歳という若さでこの世を去った。「面白きこともなき世を面白く」という辞世の句は、まさに彼の人生哲学に重なる。 そんな鬼才・高杉が人として崇めていた野村望東尼。彼女が高杉の辞世の句に応えた下の句「住みなすものは心なりけり」は、環境ではなく、己の心の持ちようがすべてを決めることを示唆している。田中こそ、高杉そして野村の至言が体に染み込んでいるといえよう。この世界が面白いものか否か、そして困難に直面したときに挑戦するか否か、結局のところ、決定するのは自分自身である、と。 「大学の休学、営業職ではなく人事総務としての配属…私自身、自分の考えていたイメージとは異なる現実を受け止めるタイミングが何度もありました。ただ、そのときそのときに腐っていたら、今の自分はないと思うんです。現在の立場では、今まで培ってきた経験が光った瞬間が幾度となくあります。どんな経験もムダにはなりません。いかなるときでも、その状況に感謝し、楽しめるか。それが人生を豊かにする考え方であることに間違いありません。」 ふと立ち止まってみると、すべての機械そしてエネルギー、双方が重なり合い、時にはぶつかり合いながら、ひとつの物語を紡いでいることに気づかされる。人々は、その物語の中で、自己の存在意義や未来への可能性を見出す。そしてその移り変わりの一瞬一瞬は、まるで心の奥底で密かに燃え上がる情熱のように、確かに、そして美しく存在している。三菱化工機は、まさにその物語の中心にいる。

企業のロゴの前に立つ田中社長