武蔵小杉から聞こえる歯車の音
かつての武蔵小杉には、工場の排気と川沿いの土埃が入り混じった、独特の息苦しさがあった。田園地帯から一足飛びに工業地帯へ変貌したその姿は、人々に「ここから東京の端っこまではあっという間だ」と錯覚させるほどの勢いに満ちていた。東急東横線がつなぐ都心への近さは、開発の波を次々と呼び込み、やがて“タワマンの街”としての新しい顔をかたちづくる。ひと昔前なら想像もできなかった、空を突き破るような高層ビル群が、今や武蔵小杉の風景を支配しているのだ。 だけど、その足元には昔ながらの市場が残り、老舗の和菓子店がゆるやかに時を刻んでいる。休日の昼下がりには、タワマンから降りてきた家族連れが細い路地に集まり、昔ながらの商店街をぶらつく光景も珍しくない。鉄とコンクリートのモニュメントがそびえ立つ一方で、あたたかな人間の営みがまだそこかしこに転がっている。いわばここは、高度経済成長から令和の最先端までを詰めこんだ、都市の“縮図”のような場所だ。 彼の歩みを追いかけていると、まるで歯車が複雑に噛み合いながら時を刻んでいく精巧な機械のようだと感じる。創業から半世紀を超えた歴史を持ち、神奈川・武蔵小杉という都市の熱気と混在を背景に成長を続けてきたジスクソフト株式会社。ここで4代目の代表取締役社長を務めるのが冨澤慶二郎である。ATMの制御プログラムからロボティクスやAIソリューション、そして企業の課題解決に至るまで――ソフトウェアの企画から開発・運用保守までを一貫して行う同社の歩みは、静かながらも強い信念を感じさせる。そしてその信念の中心にあるのが、「仕事を楽しみ、人生を楽しむ」という言葉だ。

地に足をつけた事業を

創業当初のジスクソフトは、まさに日本の情報サービス業が産声をあげた頃に生まれ、やがてATMの基幹制御システムや業務アプリケーションの開発で名を馳せた。その後、バブル期に複数の分社・合併を繰り返しながらも、最終的には現会長が各会社を統合し、一つの形へとまとめあげて現在に至る。急成長と激しい浮き沈みを経験し、「地に足をつけた堅実な事業運営こそ、組織を長く存続させる要だ」という経営方針が社内に浸透したのは、この波乱の歴史の賜物ともいえる。 そんなジスクソフトを牽引する冨澤慶二郎は、もともとは“社長の息子”という立場でありながら、「親の後を継ぐつもりはまったくなかった」と振り返る。大学卒業後は別の企業で営業職についたものの、時代の流れと企業の経営難が重なり、職を見直す機会に恵まれた。そこで初めて「10年後もモノづくりの現場に携わっていたい」と強く感じ、ジスクソフトに中途入社を果たしたのだ。それは、学生時代に友人の音楽イベントを手伝い、告知フライヤーをデザインした経験に端を発する。「人と対話しながらモノを作ること」が、ひたすらに楽しかった――あの熱量が、彼を突き動かしたのである。 入社してからは、システム開発部門でソフトウェアづくりの基礎と面白さを徹底的に叩き込まれた。複雑なプログラムでも粘り強くデバッグし、試行錯誤を重ねた先に待つ“ものが動く”瞬間。まるで自分が機械に命を吹き込んでいるかのような感覚だったと彼は語る。一方で、技術開発に没頭するほど、「いつか自分の力で会社を変えられる立場になれたら」という想いが密かに膨らんでいったという。しかし当時の父親、すなわち先々代の社長は「血縁にこだわらない」というスタンス。後継者を息子に指名するつもりはなかった。ところがビジネスの拡大や株式の継承など、現実的な問題と対峙したときに、その役割を担い得る人物として冨澤の名が挙がった。もとより社への愛着を深めていた彼は、そのオファーを受け入れた。 もっとも、それは“生まれながらの後継者”が歩む王道ではなく、むしろ荒削りな道だった。現場に深く根差していたがゆえに、新卒採用や間接部門の仕事に携わるときは、まるで異文化に飛び込むような衝撃があったという。けれど、それこそが会社全体を見渡す貴重なステップになった。やがて2019年に代表取締役副社長となり、2023年、正式に4代目の代表取締役社長へ就任。今となっては「社長になるつもりはなかった」という過去の言葉が嘘のようだが、彼の根底には常に「新しいサービスを生み出してみたい」という情熱があった。それが火を噴き、社長就任のタイミングで、一気に社内改革へと向かうことになる。 強烈なエピソードとして、彼自身が失敗を招いたという“文化の違い”の話がある。同じシステム開発でも、あるクライアントは「夜を徹してでも徹底的に仕上げてほしい」というタイプ、別のクライアントは「定時までに進捗を明示してほしい」というタイプ。要するに、相手ごとに異なる考え方を掴むことができず、慎重なコミュニケーションを怠ってしまったことで発注が途絶えた経験だ。たとえ技術力があっても、それをどう相手に届け、どんな価値を生み出すかの視点を欠けば仕事は続かない。その苦い体験が、今では「困り事を解消するサービスを提供する」という会社の新たな方針にも活かされている。
発想も磨く
ジスクソフトの強みは、ハードウェアに近い制御プログラムから、人々の生活を豊かにするアプリケーションまでを一貫して手がけられる点にある。もとは大手電機メーカー向けに培ってきた技術力と実績。それを武器に、現在はモビリティやロボティクス、AIソリューションの領域、さらに地元企業の困りごとを解消する共同研究・共同開発へとフィールドを広げている。冨澤は「まずは目の前の企業や業界の課題を解決し、それが社会全体の課題解決につながる流れを目指したい」と語る。起こり得る多様なニーズに柔軟に応えられる開発力、そして必要に応じて運用や保守までも担う総合力。この掛け合わせこそが、ジスクソフトが歩む“これから”を形作っている。 さらに彼がこだわるのは、やはり「技術と発想を磨く」という姿勢だ。技術とは手を動かし具体的に形にする力であり、発想とはその技術をどこに向けるかを決める創造力。どんなニーズがあって、どんな制限があるのか。そこを突破する知恵こそがソフトウェア企業の真髄なのだと言わんばかりだ。そして何より、この試行錯誤の過程そのものを、社員にも「楽しんでほしい」と願っている。苦労が絶えない現場ほど、仲間と協力して高い目標を越えたときの達成感は大きい。仕事の苦しさと楽しさは同時に存在するからこそ、人は成長できる。それが彼の考える「仕事を楽しみ、人生を楽しむ」の本質なのだ。

組織で完成させる
江戸後期から明治期にかけて活躍した“からくり儀右衛門”と呼ばれた天才発明家・田中久重は、複雑な歯車を組み合わせ精密なからくり人形や時計、そして蒸気機関や照明器具などを次々と発明し、「技術の粋」を人々に披露した。どんなに時代が変わろうとも、彼の根底には「モノをより便利かつ面白い存在にする」という探究心があり、その延長として、後に東芝のルーツにもなる工場を興したとされる。現代の視点で見れば、ソフトウェアという見えない仕組みを磨き込む冨澤と、歯車の一つひとつに魂を吹き込む田中久重の姿は、形は違えど類似点が多いように思う。 「儲けるよりもまずは会社を潰さないこと。長く続ける中で、自分たちの柱となる新たな技術やサービスを育てたいです。」そう語る冨澤が今、思い描く未来は、単にシステムを作るだけの企業ではない。技術者や管理部門が互いに刺激し合い、全員が“からくりの歯車”となって、大きな仕掛けを完成させる、そんな組織像を描いているのだろう。彼にとって田中久重のような発明家は、一つの理想の姿かもしれない。「モノを創り出す喜び」と「世の中を便利にする責任感」を両立させる。その先にあるのは、まさに「あの会社があるからこそ、社会がより便利になった」と評価される企業イメージなのだ。 最後に若い世代へのメッセージとして、冨澤は言う。「小さい頃に感じた不満や、“こういうふうに変えたい”という想いを大事にしてほしい。そして技術を学んでほしい。実践の場では、必ずと言っていいほど制限や苦労がある。しかし、それこそが創意工夫を生む種になる。」もちろん、AIやクラウドが普及し、ソフトウェアの概念も変わりつつある現代において、すべてが簡単に実現できるわけではない。それでも、「意志あるところに道あり」の信条を曲げなければ、いつか道が開けるはずだ。 きっと、この物語はまだ始まったばかりだ。大きなものをつくるためには、無数の歯車が噛み合い、絶妙なバランスを保たねばならない。ジスクソフトという機械仕掛けの未来図は、彼の意志と社員の発想が一点に結集したとき、よりダイナミックに動き出すに違いない。彼の“次の歯車”はいったいどんな夢を刻むのだろうか。誰もが期待を抱きながら、その行方を見守っている。
